ゆるおに 麒麟児と俺 その1

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麒麟児と俺 その1
「13 麒麟児と俺 その1 『蛾』」

※一部、『ゆるおに』本編とは軸が異なります



 風に乗って、目の前をふっと黒いものが通り過ぎた。
 布切れが吹かれている、と気付いて、なんとなく行き先を眺める。黒い布は廊下を通り過ぎ、庭へと渡った。ゆらりと低い位置に下りたが、地面に落ちる寸前にまた吹き上げられ、木の枝に絡まった。
 葉のないその木は、おそらく柿だ。今の時期は実が成っていても良さそうなものだが、さっぱりと裸にされている。
 この屋敷の敷地内の果樹はすべて、実を刈り取られることになっていた。腐ると見目が悪いだの、獣が来るだのという理由で、弥風だか刹那だかが、若い者に命じて管理しているのだ。
 効率的だが、味気のないことだと白威は思う。
 黒い布切れは、寒そうな枝に絡まって、風にはためいている。さほど興味があったわけでもないが、他に見るものもない庭だ。自然と目が行く。
 その布は、ハンカチよりは細長く、なんとなく繊細げな形状だと思われた。絹か化繊か、よくはわからないが、光沢のある生地だ。
 引っかかっている枝はそう高くない。白威が手を伸ばせば届くだろうが、わざわざ近寄って試す気にはならなかった。その木が少し遠いこともあるが。
 ――女物の下着かもしれない。
 そう思ったからだ。本当にそうであるなら、見ないふりをした方が賢明である。高貴の女鬼の持ち物であった場合などは尚更だ。
 廊下の床板が軋んだ。誰かが近くを歩いている。
 縁側に腰掛けていた白威は念のため立ち上がり、高位の鬼の姿に備えて、姿勢を正した。
 ふた呼吸ほど置いて、その鬼が姿を現した。髪の長い女。白いブラウスの袖と、黒いスカートの裾が、やや少女趣味にふくらんでいる。グラマラスな体型に合っているとは思えないが、顔立ちが美しいため、似合うの似合わないのとは言わせない気迫があった。
 高位の鬼で合っている。姿勢を正しておいてよかった。
 沙羅が白威を見て立ち止まる。数メートルの距離があったが、女の香水の匂いがした。
「ええと――お前は」
 考えたようだったが、白威の名前は出てこないようだった。
 一礼して名乗る。
「白威と申します」
「ああ、すまない。神無の従者だな。斎観の弟弟子だろう」
「いかにも、神無様の門下です」
 この屋敷に住まう者は全員が血縁であるため、身内を呼ぶときにも敬称を省くことはない。作法として気持ち悪いよな、と兄弟子が言っていたが、白威はそう気にしたことはない。師を呼び捨てる方が馴染まない。
 沙羅はやわらかく波打つ長い髪を下ろしていた。普段は高く結っているため、少し印象が違う。化粧も薄い――いや、していないように見えた。それでも美しい女だが、珍しいことだ。身なりに構わない女はいるが、沙羅はその部類ではない。
 白威がそう思っていることを察したのか、沙羅は少し困ったように笑った。
「身支度の最中だ。髪を上げようとしたのだが、リボンが風に飛ばされて、探していた。部屋の障子を開けていたものだから」
「リボン? と仰いますと」
 思い当たって、庭の木を指さす。
「あの――あそこの枝に引っ掛かっている」
「ん? ああ、あれだろうな。よく見えるな」
「眼鏡で矯正しているので、このくらいの距離ならば。何かとは思ったのですが」
 まさしく飛んできたところを目撃したので気付いたのだ、とは言わなかった。拾わなかったことを咎められるかも知れないからだ。
 この状況では、行かざるを得ない。
「取ってまいります」
「いや、いい。外履きもないだろう。わざわざ庭に下りてもらうほどのことでもない。年寄りが廊下で踏んで、転んだりした日には文句を言われるだろうから、それで探しただけだ」
 沙羅はその華やかな外見と、若手では首位と言われる才気のわりに、さっぱりとした気性の女だ。気位の高さと口調のために、傲慢に見えないこともないが、少なくとも下の者には寛大なほうである。
 リボンが飛ばされるだけあり、今日は少し風が強い。沙羅の長い髪がふわりと揺れた。
「眼鏡をかけている者は、一族には珍しいが――」
 雑談のニュアンスだった。視線は庭の木に向いている。
「伊達眼鏡ではないのか」
「はい。若い頃に高熱を出して、それから視力が落ちました」
「あの、豪礼の――末の子供。斎観の弟だな。あれも眼鏡をかけているが」
「彼は豪礼様に殴られて、打ちどころが悪かったために、視界に影響が出たと聞きましたが」
「え」
 弾かれたように白威を振り向く。
「ひどい話だな」
「はい。斎観からの話なので、事実かと思います」
「そうか」
 沙羅は視線を落とした。そうすると、白威の師と同じくらいに睫毛が長い。その分、若さが際立った。沙羅も百に近い歳であろうし、白威よりは年配だが、三百歳を超える神無と比べると青い。可憐とも言える。
「ひどい男だ」
「豪礼様ですか」
「そうだ。あの男はひどい。そう思うだろう」
「何とも言いかねますが」
 ひどいと思うに決まっているが、一応、陰口は控えた。
 長い睫毛が上がり、沙羅は再び、庭の木を見た。
「あのリボンは――豪礼が買ってくれたのだが」
「左様でしたか」
 豪礼とは口をきいたこともない。兄弟子の父ではあるが、白威自身はまるで関わりなどなかった。女の小物を買うような印象はないが、豪礼の趣味など知りはしない。
 沙羅はかすかに目を細めた。風で目が乾くのかもしれない。
「そんな男が買ってくれたものを、わざわざ取りに行くことはないな」
「物に罪はないと思いますが」
「まあ――そうなのだろうが。だが髪飾りなど、他にいくらでもあるし」
「左様ですか」
「柳のような返事だな」
 不満そうな言い方だったが、沙羅に話しかけられたら、ほとんどの者はこの程度の返事になるだろう。
 年寄り連中をして、麒麟児と言わしめた女だ。親しげな対応などはできない。
 白威が簡潔にそう言うと、沙羅は眉を寄せた。
「斎観は私よりも高位のはずだろう。お前は斎観にはわりとこう、親しく接していなかったか?」
「兄弟弟子ですので。あれは高くとまってもいませんし」
「私は高くとまっているのか?」
「失礼しました。悪い意味ではありません。斎観は気位を持ち合わせませんので」
「私は気位の高い女かなあ」
 納得が行かない、という表情だが、誰が見ても沙羅の気位は高い。自覚は無いのかもしれないが、あきらかに生まれ持った才気や、美貌に裏打ちされた誇り高さを持っている。沙羅の年で、豪礼を呼び捨てる鬼は他にない。
 形の良い額と高い鼻筋を持つ沙羅は、横顔のシルエットが中性的だ。どちらかというと女を苦手とする白威から見ても、沙羅は美しい。
 白威や兄弟子は髪を短くしているが、沙羅は切るべきではないだろう。顔立ちが凛としている分、髪まで落としてしまうと、女性的な体型とのバランスが取れなくなる。
 沙羅もそのことを気にして、ことさらに可愛らしい服や小物を身に着けるのかもしれない。
「――あのリボンは、あなたには少々野暮ったいかと思いますが」
「え。そうか」
「お似合いだとは思います。あなたは近代的な美女なので、今のようにややクラシックな洋装をされると、玄妙な雰囲気になります。和装だとお顔立ちが浮いて、もっと流行に寄せると、気品が邪魔をしてしまうかと」
「女の服装に詳しいのか」
「女の師を頂いておりますので。神無様が野暮ったい服装をなさるもので、私や兄弟子は、より野暮ったい服を着ています」
「わざとだったのか」
「外に出る時は、もう少しましな格好をしています」
「その髪型もか?」
「……これは美容師に勝手にパーマをかけられました。次に行ったときは戻します」
「そのままでいいと思うぞ。それこそ、多少クラシックで似合っている」
「それはどうも、ありがとうございます」
 沙羅は微笑んだ。
 まだ立ち去る様子はない。白威から背を向けるのも無礼であるため、庭を眺める。
「私と話しても退屈だろう? すまないな」
「そのようなことはありませんが」
「私は外にいることが多いから、部屋にいても暇でな。弥風がうるさいから、しばらくは大人しくしていようと思ったんだが、私は時間を使うことが下手らしい。親しい者もないし、部屋で楽しめるような趣味もない」
「左様ですか」
「その返事でやり過ごそうとするな。お前は何か、趣味はあるのか」
「趣味ですか」
 適当にやり過ごすと叱られるため、少し考えた。
「料理をします。私も斎観も」
「料理?」
 沙羅は目を見開いた。驚いたように白威を見つめる。
「意味があるのか?」
「意味と言われると、ないと思いますが。普通の食物から栄養を摂ることはできませんし、暇つぶしです。神無様もときどき褒めてくださるので」
「ああ、すまない。そうだな。野暮なことを言った。料理か。台所をたまに使っている者がいるが、あれは趣味か」
「そうだと思います。父などは刹那様の薬湯を作っていますが。あれも少し甘くするなりして、飲みやすくすればいいと思うのですが――父はそういうことに興味がないので、まあ口は出しません」
「ふうん。お前はどういう料理を作るんだ」
「最近、斎観が鰹節を作ったので、それから出汁をひいて味噌汁を作っています。温まるので、今の時期は台所に作って置いておくと、いつの間にか無くなります」
「鰹節? 出汁?」
 意外に聞き上手だ。いちいち驚いて聞き返してくる。
「料理研究家か?」
「そう大したことでもありません。暇なので」
「味噌汁とは、こう、何を入れるものなんだ」
 いかにも『味噌汁』というものに馴染みのない、おっかなびっくりといった言い方だ。まあ味噌汁に縁のなさそうな鬼ではある。
「私は根菜類を煮ます。斎観のほうは、油揚げとわかめと、じゃがいもの味噌汁が得意ですね」
「油揚げとは、あの、薄茶色の? 食べたことがない。あれは結局なんなんだ?」
「そんな質問がありますか?
 反射的にそう言ってしまったが、確かに考えてみると、ありえなくはない話だった。鬼は一般的な食物を摂る必要がない。口に入れるとすれば、それこそ趣味である。菓子類などは多くの者が食べるが、味噌汁をわざわざ飲もうとすることはなく、ならば食材について知ることもない、のかも知れない。
 それにしても、愛人に付き合って食事をするなり何なりの機会はあると思うが。
 人間の男ごときに合わせはしない、ということなのだろう。
「油揚げは、こう……豆腐を揚げたものです」
「豆腐を揚げたら厚揚げだろう」
「それを薄くすると油揚げです。ああ、確かに、地域によっては薄揚げとも言います」
「味噌汁にそれを入れるのか? 油が浮くのではないか?」
「油気があっても美味しいですよ。冬は豚汁などもいいですね」
「聞いたことはあるが食べたことはない」
「銀食器のご令嬢という感じですね」
 素直な感想だったのだが、沙羅は嫌味と受け取ったようだった。
「悪かったな。いい年をして物を知らなくて」
「そんなつもりは。神無様も豚肉は召し上がりませんし」
「ふうん。ヒトに一番近い肉だと思うが。……お前は神無のために料理をするのか?」
「申し上げたように、趣味です。出来が良いときは神無様にも差し上げますが、だいたいは自分で消費します。斎観も同じですね。作るのが好きなだけです」
「いいなあ」
 そう言って、沙羅は本当に羨ましそうな顔をした。
「私のところは誰も料理になど縁はない。お師様も兄弟子も。私もだが。誰かの手料理など口にしたことはない」
「趣味の域なので、それほど良いものでもありませんよ」
「お前のような弟弟子がいたら、楽しかったろうな」
「はあ。恐縮です」
 高位の兄弟子にただでさえ劣等感を持つ白威に、こんな姉弟子がいたのでは、より卑屈に日々を過ごすことになるだろう。
 もちろん、口には出さない。
「沙羅さんの兄弟子様は――確か」
「東雲だ。あの様子のおかしな男だ」
 一族でただひとり、髪を金色に脱色し、刺青を入れ、顔面にピアシングをしている男である。
 沙羅の形容は間違ってはいない。あの男の様子はおかしい。
 美しい女はぷりぷりと怒った。
「まったく。元はましな男なのに、あんな姿になってしまって、何を考えているのだか。刺青を見せびらかすために筋トレをしているのもダサい」
「あ、筋トレしてるんだ……」
 良い身体をしていると思った。
 鬼の一族の膂力は、見かけの筋肉量にはあまり関係がない。よって外見を変えるほど身体を鍛えるためには、かなりの努力が必要なはずだ。
「それは良いことだと思いますが」
「虚栄心だ。浅薄だ。もっとストイックな兄弟子が欲しい」
 そういえば、この美女は麒麟児だが、東雲もジーニアスの部類だ。克己一門はエリートを揃えている。
「東雲さんとあまり上手く行っておられないのですか」
「どうだろう。不仲というよりも疎遠だな。部屋も離れているし、あまり話したこともない」
「師の世話をするならば、どうしてもある程度の会話は必要になりませんか?」
 沙羅はきょとんとした表情を浮かべた。
「師の世話は、向いているほうが行なうべきだろう。お前のところは二人ともマメだから、分担しているのだろうが」
「向き不向きの話ではないと思いますが――つまり、東雲さんだけが克己様のお世話をしているのですか」
「東雲よりは私の方が高位なのだし、自然なことだろう」
 これで気位の高い自覚がないのだから、生まれの違いを感じざるを得ない。
 ナチュラルボーン貴族である。白威の兄弟子も、血筋で言えば皇族に近いが、育ちのせいでやや土臭い。沙羅はぴかぴかの彫像という様相である。
 白威が見る限り、東雲も決して尊厳を持たぬ男ではない。それを雑用に使うということの重大さが、沙羅には理解できないのだろう。
 理解する必要もない、ということなのだろうが。
「東雲さんを顎で使うことに、右近様は何も仰らないのですか?」
「右近が? 何を?」
 暴虐の次期長老が、威嚇をもってその危険度を示す鬼のことさえ、視野に入っていない。
 羨ましい、と素直に感じる。怖いものなど無いのだろう。
「羨ましい」
 声に出てしまった。
 沙羅が怪訝そうな顔をする。
「何がだ?」
「あなたを取り巻いている多くのものです」
「私はお前の方が羨ましい。料理ができて、兄弟子と仲が良くて、師の寵愛も得ているのだろう」
「料理は最初からできたわけではありませんし、兄弟子と特別に親しいわけでもありませんし、師からの寵愛も得てはいないと思います」
「隣の芝は青い、ということかな」
 違う。誰が見ても明確に、沙羅の芝の方が青く繁っている。
 言葉にしたところで通じないだろう。こうした印象は斎観に似る。目線の位置が違うために、価値観が通じない。
 必ずしも悪いことではないのだろう。こちらから沙羅が寵児に見えるのと同じく、沙羅からも白威の欠点はあまり見えていないらしい。
 リボンはまだ、木の枝に絡まっている。それは大きな蝶のようにも見えた。距離が離れているためだ。そういえば、蝶は好みの分かれる昆虫である。美しい羽根を持つものが多いが、近くで見れば虫のグロテスクさを有している。
 二人でしばらく、羽根のようにはためくリボンを眺めていた。







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