ゆるおに Ever
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Ever
「15 Ever」



 屋敷の裏手から少し歩いた、静かな森の中に、一族の墓所がある。
 墓石などは建てていない。木を倒して草を刈った土地に、骨壺を埋めているだけの、殺風景な場所だ。ここ三代の長老が続けて「死ねば骨になるだけ。墓標などは無意味だ」という価値観を有していたため、ひどく簡単な埋葬となっている。地面は平たく均されているため、正確に何人の骨が埋まっているのか、それもわからない。
 此紀がいつも立つ場所も、本当は、師の眠る場所ではないのかも知れない。北の端のほう、という目安を覚えているだけだ。
 父の場所に至っては、もう完全にわからなくなった。だから、師が埋まっているであろうあたりに立ち、師と父の冥福を同時に祈る。
 此紀は十名以上の従者にも先立たれているが、こちらについては祈らないことにしている。正確には、祈りたい気持ちはあるのだが、人数が多いために、全員を思い出すことはできないのだ。ある者を思い出し、ある者を思い出さないのでは、不公平になる。
 「それは何か違うのではないか?」と弟弟子に言われたことがあるが、此紀はそう決めたのだ。
 供物として許されている品は、花だけだ。他のすべてのものは「ゴミになる。まして腐るようなものを置いていったら張り倒す」と弥風が怒るのだった。
 師は別に、花を好んだというわけでもないため、此紀は何も供えない。ただ来て、目を瞑り、そのまま帰るだけだ。
 長老たちだけが淡白というわけではなく、一族の者ほとんどに、墓参りの習慣はない。ここで誰かと会ったことはなかった。万羽は年に一度、長兄の命日に来て、兄たちをまとめて弔っているのだそうだ。大雑把な供養である。
 だから、背後で草を掻き分ける音が聞こえたとき、山の獣だと思った。熊かも知れない、と背筋が冷える。

 すーっと息を吸い、覚悟を決めて振り返る。
 熊ではなかった。大柄な男と小柄な女。
 男の方が会釈する。
「此紀様。すみません、驚かせてしまいましたか」
「驚いたわよ。鈴とか鳴らしながら来なさいよ」
 すみません、ともう一度謝って、斎観は歩み寄ってきた。この男が師より前にいるのは珍しいが、文字通り、草分けの役割を果たしているのだろう。
 神無がほとんど足音を立てずに歩いてくる。従者を追い越して、南の端の方に立った。大きな黒い目で此紀を見る。
「父親の墓参りか?」
「まあそうだけど、先生のお参りのついでよ」
「親不孝なことだ」
「父だって、私には大して関心がなかったもの。お互いさまよ。あんたも父親の墓参り? それとも子供たちの?」
「今日は従者だ。命日だからな」
「へえ」
 神無が墓などに来ることも、従者の命日などを覚えていることも、初めて知った。
 もっとも、神無が取った従者は多くはない。今連れている斎観を含めて、三名か四名といったところだろう。その分、印象は深いのかもしれない。
「あんたの亡くなった従者って、ええと、あの背の高い」
「それは有升だ。詩幻はさほど上背はなかった」
「詩幻様も、当時としては長身のほうだったと思いますが」
 斎観がそう言ったが、この男は現代の基準でも長身だ。
「あんたフォローが下手ね」
「はあ、白威にもよく言われます。血統が良くて小器用なもんですから、何を言っても嫌味になってしまいます」
「自分で言うあたりも、血統のわりに気さくっていう印象をアピールしてるんでしょ。嫌な男ね。白威はあんたのこと嫌いでしょ」
「嫌われています。身近な男にはだいたい嫌われますね。なので、優しくしてくださった詩幻様のことは好きでした」
 しんみりとした口調で言って、神無の足元のあたりを見る。
 神無がぽつりと言った。
「詩幻は周りに構わん男だったからな。自分のことにも頓着しなかった。だから早く死んだのかも知れん」
「ずいぶん気に入ってたのね」
「そうだな。一族には珍しい、さっぱりとした男だった。惜しかった」
「斎観、言われてるわよ」
「別に競っちゃいませんよ。犬は見返りを求めずにご主人様を慕うものです。たとえ自分が一番の犬でなくても」
 此紀はこうした喋り方の男が嫌いだが、神無は好むのだろう。主の好みにカスタマイズされた犬。少なくとも、そう装っている。
 信用ならない男だ。
 もっとも、この男が信奉するのは神無ひとりであり、此紀から信用を得る必要など無いのだろうが。
「桐生とは似てないわね、あんた。親子とは思えないわ」
「はあ。顔は似てませんね」
「中身も似てないでしょ」
「そうですか? 結構、俺に似ちゃったなーと思うことありますが。調子ばっかり良くて薄情なところとか」
「あの子は真面目で気が利くわよ」
「ネコかぶってるだけでしょう。素だと、口も性格も良くないですよ。あれでプライドも高いですし」
「そのあたりは毛並みの良さとトレードオフなんじゃないの?」
「あいつ自分のこと世界で一番かわいい男だと思ってますよ。父親から見てもちょっと引きますよ」
 聞いていた神無が少し笑った。
「お前の子は実際に可愛らしい。その程度の自信を持っていても構わんだろう」
「男のナルシストはいただけないと思いますがね。あいつ何でも思い通りになると思ってるもんだから、小さい挫折にも弱いですし」
「ああ、確かに桐生はそういうところあるわね。ちょっと注意すると過剰に落ち込むわ。真面目なんだと思ってたけど」
「真面目なのは真面目なんでしょうが、やっぱりプライドが高いんですよ。此紀様からのご注意ならまだ聞くんでしょうが、俺が叱ると逆上しますからね」
 神無がまた笑う。
 珍しいことだった。機嫌が良いのか、話題を気に入ったのか。
「なんですか神無様。けっこう深刻な問題ですよ」
「男で、しかも子供だろう。そのくらいで可愛らしい」
「子供ってほど子供じゃないですよ。そろそろ二十歳になりますし」
 その二十倍近く生きている神無は、「幼い」とまた笑った。
「長く生きれば擦れる。今は増長しておくのも良いだろう。無邪気は不可逆で、若さの証だ」
「万羽様なんかはいい年なさっていても無邪気でらっしゃいますが」
「そうでもない。あの女はあの女で、気を遣って暮らしている」
「あら。あんたと万羽は没交渉だと思ってたわ。意外によく見てるじゃない」
「あれの兄は目が不自由だったろう。弥風はそちらに手を焼いていたから、万羽の面倒は宣水や俺が見ていた」
 そういえば、神無は見かけによらず、子供が好きなのだ。一族の子供を構っている姿をときどき見かける。
 万羽が幼子であった時分は、此紀もまだ若かった。そのため、あまり覚えてはいないが。
「万羽を従者に取ったのは宣水の方で、あんたじゃなかったわね」
「女は取らん」
「趣味じゃないから?」
「女は面倒だ。どうのこうのと考えているくせに喋らない。男は思っていることを喋るから楽だ」
「つまり趣味の問題でしょ。斎観が思ってることを喋ってるとは思えないけど」
「俺に火の粉が来るんですか? 素直で明るいことで有名ですよ。犬のように可愛らしい男です」
「素直で明るいふりして、手が早いことで有名じゃない。いつも三百歳過ぎの女の機嫌を取ってるから、遊び相手は若い女がいいの?」
 ぐっと言葉に詰まった斎観の背中を、神無がはたいた。
「ばれないようにやれ。先に戻っていろ」
「お恥ずかしい限りです。お戻りのときは足元に注意なさってください」
 此紀に会釈して、斎観は逃げるように草むらへ消えていく。
 その背中を呆れたように眺めながら、神無は呟いた。
「昔はもう少し可愛げがあったが、小賢しくなった」
「あんたがそういうの好きだからでしょ。従者は育てたように育つのよ」
「自主性を尊重している」
「嘘おっしゃい。ド調教でしょ」
 ふ、と悪の頭領のように笑って、神無は此紀を振り向いた。大きな黒い瞳。
「お前はしばらく死なんだろうな」
「巫女様のご神託? ありがたいわね」
「お前が死ねば悲しむ者は多かろう。身体に気を付けることだ」
「悲しまれない方がいいわよ」
「そういう考えもあろう。だが、自分では選べないものだ。俺もお前が死ねば悲しい」
「あら」
「お前は勤勉であり、善良であった。我が一族には珍しいことだ」
「勤勉はともかく、善良のほうは怪しいわよ。いつだって私は弱かっただけ」
「お前は自分の内心と、善悪、正誤をすべて分けられる女だ。そしていつでも、善いこと、正しいほうを選んできた。尊いことだ」
「ずいぶん持ち上げるわね」
「幾度繰り返しても」
 少し強い風が吹いた。此紀と神無の髪が同じ方向へ流される。
 長い前髪の下で、神無が続ける。
「祝詞は同じことを言い、弥風を同じように怒らせ、同じように首を斬られるだろう」
 そうなのだろう、と此紀は思う。
 此紀や典雅がどう諫めても、師は己を曲げることをしなかった。
「未来視の巫女様は、ifの世界のことも視えるのかしら」
「お前にも視えるだろう」
「未来視とは、要するに――高性能の演算でしょう。目の粗い範囲なら、それは予測できるけど。あんたほど緻密に視ることは無理よ」
「どうにかなる。それが視えていれば充分だ」
「どうにかなる未来は私には視えないわよ。弥風と刹那が死んだ時点で、現行の制度は瓦解するでしょう」
「万羽も蘭香もいる。豪礼とて、ただの場所塞ぎでもない。お前が気負うほど未来は暗くはない」
「まあ」
 知ったような口をきく。
 だが事実、この女に限っては、多くのことを知っているのだった。
 メカニズムは不明だ。高性能の演算――と解釈しても、そのこと自体が現代科学を凌駕している。
 此紀は理系の女であるから、自分が全知の存在ではありえないことを知っている。だから神無の未来視についても、保留という形で受け入れていた。
 神無は乱れた髪を適当に直した。
「分け目がぐちゃぐちゃになってるわよ」
「あとで直す」
「ねえ」
 大きな目が此紀を見る。
 顔立ちが冷たく、無口で高圧的に見えるが、この女は存外、寛大で親切だ。従者が犬のように懐くだけの理由がある。
 神無はこういう時、じっと相手の言葉を待つ。
 穏やかな時間を生きているのだろう。
「あんた猫顔よね」
「何の話だ」
「誰しも、大きなものに寄り添うと安心するわ。あんたは大樹。見掛けは猫みたいな女だけどね」
「お前にとっては祝詞が大樹だったのだろう」
「よくそう誤解されるけど、寄り添っていたのではなくて、愛していたのよ。あんたの従者と同じにしないで」
「どう違う?」
「あんたや刹那は薬物が好きでしょ。その依存症と同列に語らないでちょうだい」
「同じに見える」
「私が男に弱い身体なのと、先生を愛していたことは、関係のない話よ」
「ふっ。ふふふ」
 もう一度、風が吹いた。
「お前の魂は身体から独立していると?」
「している派よ。正確には、独立させることもできる、と言うべきね。身体を従えても、魂を従えられるかどうかは、魂側の性能に拠るわ」
「問うのは魂の性能か?」
「確かに。身体の性能と言い換えても、結局は同じかも知れないわ。あんたは魂懐柔派だから、逆の言い方のほうが通じるかと思ったけど」
「口の悪い女だ」
「あんたはやり口が悪いわ。マインドコントロールよ。自覚があるのかどうか知らないけど、相手の一番弱いところに付け込んで、取り込むのが上手すぎるのよ」
「女はそういうことを言うから面倒だ。男は黙ってついてくる。ヒヨコのように」
「随分大きいヒヨコを獲得したわね」
「落ちていたから拾った」
「あんたが拾ったのがヒヨコなら、私が預かってるのはタマゴ?」
「お前の方が良い拾いものをした。男は若い方がいい」
「私はあんたと違って、孵ったら手放すつもりで育ててるのよ。あんたのヒヨコは、あんたの庭で生きて死ぬ。それを批判はしないけどね」
「羽ばたいたのは宣水と沙羅だけだ。他の誰も、どこへも行きはしない。俺が手綱を握っていようが、放そうが、どのみち変わらん」
「和泉が山を出るそうよ。学校に通うために」
 珍しく驚いたような表情を浮かべて、神無が顔を上げた。
「そうか」
「巫女様が驚くような話だった? 無関心な連中が多いようだけど」
「血が濃いな」
「そうね。知性は父親譲りだわ」
「幾度繰り返しても、宣水は同じ行動を取る。それは良い。あいつの気性は知っている。だが、子にもそれが継がれたか」
「予言? 解釈? もうちょっと噛み砕いてくれない?」
「感想だ。幾度回しても、同じ目に止まる。弥風と祝詞と宣水。間接的に、お前と沙羅。都度、別の目に止まるのは、万羽くらいか」
「噛み砕いてって頼んでるんだけど」
「噛み砕いているつもりだ。賭博の回転盤に喩えている。お前たちには比喩の方が伝わるのだろう」
「私たちの行動にはランダム性が低いっていう話ね? だから未来の行動が予測しやすいと、そういうこと?」
「違う。視えるのは過去だ。未来など視えるなら、詩幻を死なせはしない」
「すべての未来が視えるわけじゃない、っていうのは知ってるわよ」
「未来などひとつも視えはしない。半周遅れているから、半周速く見えるというだけだ」
「――それは」
 巫女様の未来視。一族の抱える謎。現行の科学を――半周上回る存在。
 その片鱗についての、きわめて重要な証言が含まれている気がした。
 巫女はかすかに笑った。
「過去と未来さえも、受け取る者によっては反転する。お前は放っておいても、地を歩み、正しい道を選ぶ。反転しない女だ。審判はお前に味方する」
「審判とは誰?」
「お前を後押しするものだ。おのずと見えよう」
「私にとっては、運命も世界も、太陽も月も星も、何もかもが、あの男だったわ」
「そして吊るされた。力は弥風に。正義はお前に」
「あんたは隠者? それとも皇帝?」
「愚者だろう。刹那は魔術師の卵だ」
「あんたは無いから0。刹那は10の-18乗で、1未満だから? 万羽は10の4乗だけど、どう処理するわけ?」
「一本取られたな」
「真面目に話してるんだけど」
「たまには不真面目になれ。夜遊びをして酒でも飲んで、不純異性交遊をして、爆竹を鳴らせ」
「夜遊びはするし酒も飲むし、不純異性交遊もするけど、爆竹は鳴らさないわよ」
「爆竹は掟で禁止されている。発砲音と間違って、弥風が出陣するからな」
「なおさら鳴らさないわよ。首取られるじゃない」
「禁止されているから楽しいのだろう。弥風の部屋の文鎮を、でかいチョコレートに置き換えたりしろ」
「あれあんたがやったの!? 暖房入れたら溶けたって言って、無茶苦茶怒って犯人探してたわよ。自首しなさいよ」
「証拠はない。指紋を取られても、逮捕されるのは斎観だ」
「従者に何をやらせてるのよ」
「苦労して文鎮に似せた細工をしたのに、すぐ溶けてしまって残念だと言っていた」
「すごく暇なの?」
「暇な時間は作った方がいい。お前はことさらだ。お前は道を踏み外すことはないのだから、少しくらい逸れに行け」
 見透かしたようなことを――いや、実際に見透かしているのであろうことを言って、神無はゆっくりと周囲を見渡した。ここは森だ。木しかない。
 だが、何かを見つけたように、ぴたりと一点で視線を止めた。
「雨の日は墓参りを控えることだ」
「さすがに雨が降ってたら、あの山道を通っては来ないけど。なぜ?」
「熊が出る」
「それは巫女様の予言? いつの雨の日?」
「お前たちが予言と呼ぶものでも、そうでなくとも。お前の言う通り、雨の日にあの道を歩くべきではない。それで充分だろう」
「晴れの日は熊が出ない?」
「冬眠中でなければ、熊はいつでも出るに決まっているだろう。鈴を鳴らしながら歩け。もしくは従者を連れて、熊が従者を襲っている間に逃げろ」
「斎観は囮として連れて来てたわけ?」
「文鎮に似せたチョコレート細工も作れる。熊の餌にもなる。便利な男を拾った」
 声が冷ややかであるため、理解できる者は少なかろうが、これは冗談だ。
 神無は自身の所有物への侵害を許さない。独自のルールを、独自の速度で解釈して動く。
 神無の計算において、自身の従者の損失は、熊一匹の命では取り返されまい。従者を熊に食わせるはずはなかった。
 この大樹は、陰に寄ってきた者を庇護する。
「誰でも死ぬわね。必ず」
「ああ。誰でも」
「本当に? あんたも死ぬの?」
 神無はゆっくりと顔を上げた。空を見ている。灰色の曇天。この山に快晴が訪れることはない。
 大きくはないがよく通る、異国の楽器のような声で、巫女は言った。
「永遠と刹那は同じものだ」
「誰かの持論ね。克己だったかしら」
「刹那の父は、子に永遠の名を与えた。俺の父も。無は有を生み出すものだ」
「禅問答がスタートするならスタートするって言ってくれる?」
「違う。刹那の父の愚かさについての話だ。永遠より先に望むものがあろう。永遠には何もない。音も光もない穴の中を、休みなく落ち続けるだけだ」
「何もないの?」
「何もない。マーマレードの空き瓶もない」
「あんたも『不思議の国のアリス』とか読むのね」
「あの世界は、わりと永遠に近い。著者には才気がある」
「それは世界中が知ってるけど」
「作家としての才気など知らん。永遠についての話だ」
「ロリコン説があるわね。少女愛好っていうのは、永遠への執着を示すとは思うわ」
「本そのものが、永遠と親和性がある。百年前に書かれた本も、開かれたとき、そこに蘇る。現在と百年前が重なる」
「例え話にケチつけるようで悪いけど、重なるのは百年前そのものじゃないわ。百年前の影よ。時間は遡行できない。そのルールは何物にも侵されないわ。仮にワームホールを利用したタイムマシンができたとしても、過去には戻れない」
「過去よりも未来の方が価値がある。過去は既知で、未来は未知だ。男は若い方がいい」
「永遠にも、過去とか未来の概念があるわけ?」
「上層の影と下層の影だ。影は永遠に重なり続ける」
「永遠と呼ぶわりに、変質性があるのね。どんどん厚みが増していくなら、それは時間経過であって、永遠とは違う気がするけど」
「永遠とは縦連続だ。お前が想像するものは円環だろう。お前は永遠の姿を見誤っている」
「縦なの?」
「縦だ」
 謎の断言である。
 だからこそ、不可思議な説得力がある。
「けど、時間経過で厚みが変わる陰なら、今と過去は区別がついてしまうんじゃないの? その時点で永遠は瓦解するんじゃない?」
「なぜお前は、永遠を不変だと思っている?」
「いえ、あんたの説に合わせた反論なんだけど。音も光もない穴を落ちるだけなら、見えるのはすべて影でしょ。その影に厚みが存在するとすれば、少なくとも音か光は関係するんじゃないの? 厚みとは相対性だわ」
「だから縦だと言っている。上からは厚みは見えない。絶対性だ」
「ああ。そういう意味ね。濃度は変化なし?」
「注意深く見れば違う。だが、昨日の空の色と、今日の空の色とを比べることができるか? 昨日の空の色を、今の空の色と同じだけ正確に思い出せるか」
「永遠の存在と認知は別、と。あら? ということは、あんたの説において、永遠は存在しないんじゃないの? 永遠に見えるだけ。今日の空と昨日の空を、高解像の写真で見比べれば、時間経過が看破されてしまう」
「それが答えだ。お前たちが予言と呼ぶものは、高解像の写真だ」
「は?」
 話が戻ったようでいて、行方不明になった。
 論点が消えたからだ。
「見比べられるのは、今日の空と昨日の空でしょ? 明日の写真はまだ撮れないはずよ」
「なぜそう思う?」
「なぜって言われても。まだ訪れていないものは捕捉できないでしょ」
「なぜそう思う?」
「……まだタイムマシンを作る技術はないから?」
「この世は技術で作られているのか」
「あんた霊験あらたかな壺とか売ってないでしょうね?」
「なるほど。売れそうだ」
 売れるだろう。百発百中の未来視の壺ならば。
 未来視の巫女は目を細めた。
「お前や宣水にもわからんか。この話をもっとも理解できるのは克己であるらしい。不思議なものだ」
「あんたには明日の写真が見えているの?」
「明日の写真は撮れない。お前が言う通りだ」
「待って待って。謎かけで煙に巻く気なら、最初からそう言って」
「何がわからない?」
「なぜ未来視ができるの」
「できない。明日の写真は撮れないと言っているだろう」
「では、今日と昨日の写真の濃度を比べて、そこから明日の写真の濃度を算出するということ?」
「違う。予測はない。予想もない。ただ写真を比べるだけだ」
「質問を絞るわ。私たちと比べて、あんたは何がどう特別なの」
「写真の比較ができる」
「ああ……そうよね。そういう話だったわね。質問を変えるわ。明日の写真を撮れないのに、なぜ明日のことがわかるの」
「明日など無いからだ」
「は?」
「明日は無く、未知も無い。世界は過去の写真の並べ替えだ。焼き増しや裏刷りによって、枚数は増える。厚みは増す。時間も経過する。だが、そのことは知りえない。常に、今と過去だけだ。明日は無い」
「ちょっとわかるような話が、一気にわからなくなったんだけど」
「未来視ではなく記録簿だ。今とは、明日における過去だ」
「それは――無理よ。時間は遡行できない。今日のあんたが、明日から来たあんたであるはずはない」
「そうだな。縦移動はできない」
「まさか、横移動はできるとか言い出すんじゃないでしょうね」
「そう言えば、お前にはわかりやすかろう。あくまで比喩だ。実際には、この大地から移行することなぞできはしない。この世は地続きだ」
「『永遠の形は縦』説は面白いんだけど、並行世界を語る伏線ならいただけないわ」
「世界はひとつだ。並行するものなぞない。同じ時間は、同じ世界で連続する。縦に積み重なる。誰も、どこへも行くことはできない。昨日までの写真は、この墓地と同じだ。足の下に積み重なっている」
「そして、明日の写真は――骨壺の中から発掘するということ?」
 神無は顔を上げた。猫のような目が神秘的に光る。
「悪くない解釈だ。克己と斎観の次に」
「斎観は理解してるの?」
「理解しているわけではなかろうが、事実に近い表現を行なっていた」
「表現?」
「『強くてニューゲーム』」
「ああ――。それで縦。確かにそれは円環じゃないわね。そして確かに、遡行でもない。さらに――確かに、過去の写真の焼き増しと合成だわ。あんただけが特別なのは、あんただけが周回の事実を知っているから?」
「近い表現だ」
「明日のことがわかるのは、過去の周でも同じことがあったから。これも確かに、未来にも遡行にも抵触しないわ」
「あまり思い込むな。強いて言うのなら近いというだけで、実際の形は違う。細かく語るほど、事実から離れていくものだ。やはり克己に才がある」
「何度周回しても、先生は同じ過ちを犯すの?」
「そうだ」
「あんたのプレイングは、過去を振り返っての最善手?」
「そういうものではない。そのあたりは豪礼に聞いた方がいいだろう」
「豪礼? なんで急にあいつなのよ」
「おそらく、もっとも近い位置にいるからだ。俺よりも」
「近い? 何に? 真実に?」
「永遠に。あの男は、あの男の永遠を会得している」
「あんたなりに分かりやすいように話してくれてるのはわかるんだけど、まったく飲み込めないわ」
「あの男は永遠に対して効率的だ。お前と逆だな」
「永遠とは充足のこと?」
「違う。考え方の方向性は合っているが、そこで止まると遠ざかる。永遠はお前の充足に関係なく存在し、重なり続ける」
「私の永遠と豪礼の永遠は同じ?」
「当て推量にしては悪くない問いだ。だが、永遠は誰にも等しい」
「私の目に映る空の色と、あんたの目に移る空の色は比較できる?」
「できるのだろう。お前たちが予言と呼ぶほどに精密なら」
「学問で分類すると何? 哲学? 量子力学? それともオカルト?」
「天文学か社会学だろう」
「え? 天文学か社会学なの?」
 この巫女様が即答したからには、そうなのだろうが。
 顔や雰囲気と合っていない回答である。
 神無の長い睫毛は、上向きの半月型で、その空間を切り裂いているように見える。風が吹くと、髪がさらさらと流れる。
「あんた、髪もうちょっと何とかしなさいよ。編んだり結ったり。チョコレート細工ができる従者なら、女の髪も触れるでしょ」
「式典だのの時は結っている」
「普段から洒落ようとかいう気はないの?」
「誰に見せる?」
「誰かは見るでしょ。右近なんか、どこにも行かなくても、ちゃんと毎日髪巻いて、あの化粧してるわよ。あそこまですることはないと思うけど」
「化粧は儀式だが、俺にその必要はない。お前は不安なのか? 自分の顔にまじないをかけなければ、誰にも会うことはできないのか」
「そういう言い方されると不本意だけど、まあそうね。素顔を見せたくはないわ」
「見栄か? 仮面か?」
「両方じゃない? 鎧よ。私はあんたほど強くもないし、美しくもないから、鎧が必要なの」
「何と戦う?」
「何かしら。強いて言うなら、そうね。この世界に存在する、すべての理不尽と」
 神無が、きょとんとした表情を浮かべる。先程までとは逆だ。
「理不尽?」
「あんたには無いのかも知れないけど、私なんかにはたくさんの理不尽が纏わりついてくるのよ。私は大学病院で働いていたけど、強くて、賢くて、美しくなければ、とてもやって行けなかったわ。それでも結局、辞めたのだけど」
「お前は価値のある女だ。別に美しくなぞなくとも」
「ありがとう。でも、美しい方がいいでしょう」
「お前を必要としない世界なぞ、お前の方から捨ててしまえ」
「それが嫌なの。捨てて逃げて、袋小路に行きつくのが怖いのよ。なぜかしらね。それが呪いなのかも知れないわ」
「効率の悪い女だ」
「豪礼と違って?」
「そうだ。少しはあれを見習え。世界の方を変えるがいい」
「誰もがあんたたちほど強靭に生まれたわけじゃないのよ。そうね――あんたや豪礼や、弥風なら、世界を変えることができるのかもしれないけど、私にそんな力はないから」
「世界よりもお前を選ぶ者は居よう。そこを切り出すだけだ」
「都合のいい小世界? ――ああ。それが、あんたや豪礼の生きる世界のサイズなの? それが永遠?」
「永遠ではない。だが、永遠の重ね方としては賢い」
「万羽に永遠はある?」
 ぱちり、と音がしそうな瞬きをして、神無は此紀を見た。
「なぜあの女の名を出した?」
「永遠への足掛かりとして、妥当なところかと思ったんだけど」
「あれは永遠から一番遠い」
「え? 一番遠いの? このクイズ、相当難しいんだけど」
「典雅は近い。見習え」
「永遠に、極楽蜻蛉性は関係ある?」
「その者による」
「豪礼と典雅にあって、万羽にないもの――」
「弥風は永遠から離脱している」
「あんたと同じで?」
「俺は永遠の中にいる」
「難易度ハードのクイズね。『強くてニューゲーム』語で言うと、弥風は何?」
 神無は少し考えてから言った。
「ゲームの中にはいない」
「ああ。離脱」
「そうだ。だが、残滓は存在している。かつて中にいた、その足跡だ」
「万羽は?」
「偶発性のあるイベントだ」
「豪礼は何?」
「最初の城にいる門番だ。最後に戻っても、まだ生きている」
「あんたは?」
「知らん。誰も己を俯瞰することはできない」
「プレイヤーじゃないのね。ふうん。豪礼は登場人物だけど、万羽はイベント? その差異はどこから生まれるの?」
「他者への影響力と、主体性だろうな」
「象徴的なヒントと、具体的なヒントが混在してるから、かえって難しいのよ、あんたのクイズは」
「運命を遂行しようとする意志の強さ、とでも言う方が、お前にはわかりやすいか」
「じゃあ、やっぱり極楽蜻蛉性が関係あるんじゃ――ああ、関係ないとは言わなかったものね」
「なぜ執着する? 知的好奇心か?」
「別に知性は関係ない好奇心よ。巫女様から視える世界に興味があるだけ」
「万羽のことを気にするのに、自分のことは聞かないのか」
「私があんたのRPGで何の役割にあたるか? 一応聞きましょうか」
「お前はプレイヤーだ」
「私が?」
「誰でもいい。プレイヤーの存在は、永遠には関係がない。ただし一部の者は、確実にプレイヤーではない。お前の師も」
「先生は何?」
「掃除機を掛けにくる母親だ。ゲームを中断させようとする。永遠の天敵だ」
「永遠とは閉塞のこと?」
「きわめて近い。だが、ただ閉塞したからといって、それが自動的に永遠となるわけではない」
「必須条件であって、達成条件ではない、という話?」
「そうだな。お前は賢い」
 師のような物言いをして、巫女様は長い睫毛を伏せた。
「……喋りすぎたな。饒舌は毒だ」
「謎かけはおしまい? 最後にひとつだけ聞いてもいい?」
「なんだ」
「あんたは永遠肯定派? それとも反対派?」
「お前に準ずる」
「え? ――ああ、それは、ええと。私をプレイヤーとしたときの話ね?」
「違う。お前のプレイヤー性を問わず、お前を支持する。お前は――そうだな。プレイヤーでなければ天秤だ。あるいは。だからこそ、プレイヤーになぞらえることができる」
「天秤とプレイヤーがニアリーイコールなのは理解できるけど――あら? ええと、確か――刹那が言ってたわ。バランスというものは、ときに神の名を冠されると」
「あれも無駄に長く生きているわけではないな。そうだ。天秤とはバランスであり、バランスとはプレイヤーの仕事だ。そして、プレイヤーとは神だろう」
「神の見えざる手は経済学、つまり社会学で――ああ。話が繋がってきたわね」
「あまり追うな。男や犬と同じだ。追えば遠ざかり、待てば寄ってくる」
「ねえ、それって――」
 尋ねかけたところで、頬にぽつりと水が滴ってきた。
 神無が怪訝そうな表情を浮かべ、空を見上げる。
「雨だと?」
「降ってきたわね。巫女様の予言だと、雨の墓参りは良くないらしいわね。そろそろ帰りましょう」
「雨? そんな気配はなかった。水の匂いも、雲の音も」
「水の匂いはともかく、雲の音って何?」
 ぽた、ぽた、と手や顔が濡れる。早く帰った方が良さそうだった。
 不可解げな顔をして立ち尽くしている神無に近付き、その華奢な肩を軽く叩いた。
「ほら。あんたも年なんだから、身体が冷えると良くないわよ。私は未来視の巫女じゃないけど、そのくらいのことは知ってるわ」
「雨なぞ降りそうになかった」
「そう? いつも曇ってるんだから、いつ降ってきてもおかしくないでしょ。巫女様も天気予報は苦手みたいね」
「勝手に降られては困る」
「何を子供みたいなことを言ってるのよ。早く帰らないと、斎観が迎えに来るわよ。あの道は、雨の日は通らない方がいいんでしょ? 従者を大事にするなら、まず自分を大事になさいよ」
「雨は、お前や刹那の命運を左右する。勝手に降られては――」
「ぐずってないで、早く帰るわよ。ほら」
 神無の細い手首を掴んで、歩き出す。何か言いたげにしていた巫女は、それでもちょこちょことついてきた。
 痩せた気高い狩猟犬を連れているような気分になる。猫に似ている女だが、前を歩いていれば顔は見えない。
「ふふふ」
「何が可笑しい」
「あんたを連れて歩くのは、悪くない気分だわ。キツネでも狩りたいわね」
「誰がウィペットだ」
「別に犬種は指定してないでしょ。なかなか図々しいわね」
「レトリーバーが来た」
「え?」
 少し離れた場所から、がさがさと茂みを掻き分ける音と、「神無様ー」という低い声が聞こえてきた。
「探してるわね」
「探させておけ。あれだけ音を立てていれば、熊も寄りつくまい」
「斎観は雨に降らせておいてもいいの?」
「あれはまだ若い。雨にやられるほど薄い男でもない」
「私は薄いわけ?」
「お前は天秤だ。わずかのことにも皿は揺れる」
「斎観は門番の子だからどっしりしてるってこと?」
「そういうことだろうな。門番と言うのは適当にあてた言葉だが、存外外れていないのかも知れん。弥風が居なければ、豪礼が祝詞を排除しただろう。門番は護ることが仕事だ」
「先生を革命家にするか、反逆者にするかは、誰が決めるの」
「歴史の仕事だろう」
「歴史とは誰?」
「お前を後押しするものだ」
「それは審判なんでしょ。ぐるぐる回ってるじゃない」
「回っていない。同時に重なることがある」
「言語矛盾が起きてない? 縦構造なんでしょ。同時には重なれない。コンマ何秒かでもズレて、上下関係が生まれてるなら、それは同時とは言わないわ」
「だから。同時に重なった時だけ、それは横に広がる」
 足を止める。
 この巫女様が何を言っているのか、細かい部分は分からない。いや、大雑把にさえ分かっていない。
 それでも、今、何か重要なことを言った、ということは判ったからだ。
「――横に広がることもあるの? それは――分岐?」
「拡大だ。大地はひとつで、分岐なぞしはしない」
「1、1、2、1、1、2、1? 横幅は変動するの? 亞型ということ?」
「Y字だ。1、1、2、2、3、3、4。拡大はするが、縮小することはない」
「む――無限に広がる大宇宙? ああ、天文学というのは、これを見越しての話?」
 神無は答えない。回答を考えているのかも知れないし、まったく別のことを考えているのかも知れない。
 雨足が強くなってきた。頭上に繁る草木に遮られてなお、水滴がぽつぽつと顔に当たる。
 神無を呼ぶ斎観の声が遠ざかる。
「赤方偏移ね」
「ドップラー効果だけを実感していればいい。測るな。測るたびに遠ざかる」
「あんた話が上手いわね。そのオチまで考えて喋ってたの?」
「ふん」
 鼻で笑って、神無は此紀の手を払った。
「気が変わった。あれを迎えに行く」
「追いつくといいわね。銀河が遠ざかる速度に」
「何の話だ?」
 大きな目を見開いて、驚いたようにそんなことを言う。
「何の話って。完全に連続してるじゃない。離れていく男を、遠い銀河に喩えた、小粋なメタファートークでしょ。あんたが始めたのよ」
「銀河?」
「天文学なんでしょ」
「天文?」
 神無は強い視線の持ち主だが、今だけは、どこか虚ろに見えた。
 背筋がぞくっと冷える。
「神無?」
「なんだ」
「大丈夫? 体調でも悪いの?」
「問題ないが」
 不思議そうな顔をする女に、おそらく此紀は同じ顔を向けている。
 突然、脇の茂みががさりと開いた。
 斎観がそこにいる。
「え?」
 声は――遠ざかって行ったはずなのに。
 大男は両手で茂みを掻き分けて、神無の隣に立った。小柄な師の頭上に腕を掲げて、雨から守っている。
 傘を持っていない。気の利かないことだった。急な雨天で、師を心配して戻ったのなら、神無の分だけでも傘を持ってくるべきだ。この男ならば、加えて此紀の分も持ってくるくらいには、気が回ると思っていたのだが。
 斎観が墓所から去ってからの時間経過を考えれば、一度は屋敷に戻っているはずだった。
 ――いや。
 気付く。その前提は良いとして。
 雨を確認してから戻ってきたのであれば、逆に、時間経過が不足している。屋敷のもっとも近い勝手口からでも、ここまでは10分やそこらは掛かるはずだ。雨が降り出したのは、それほど前ではない。
 ということは、雨が降るより早く戻ってきたか、あるいは屋敷に帰っていないか――いや、後者は前提との矛盾が発生する。
 斎観は10分以上前――たまたま腕時計を外していたため、細かい時間などわからないが、体感的には30分ほど前――神無に追い返された。それから今までの間、近くで待ち伏せでもしていなかった限りは、屋敷に帰ったはずである。
 背中の寒気が、首の後ろにぞくぞくと上がってくる。
 ――別に何も矛盾はない。
 そう考えようとする。
 斎観は屋敷へ帰ったのだろう。そして少し時間を潰して、戻らない師を心配し、引き返してきた。その時点では雨は降っていない。
 これならば、構造として矛盾はない。いくつかの不自然さには、斎観なりの――何か此紀の知らない動機があるのだろう。
「降ってきましたねえ」
 神無にか此紀にか、あるいは両方に向けたその言葉も、仮説を証明している。
 屋敷を出た時点では、降るとは思っていなかったのだろう。
「このあたりの道は、雨が降るとちょっと良くないですからね」
「あんたもそう言うのね。土砂降りにでもなればそうかも知れないけど、このくらいの雨なら平気でしょ?」
「いえ、刹那様がこしらえてる人除けの結界の、一番強いやつの境目が、ちょうどこのあたりなんだそうです。雨が降ると、それに影響が出て? なんか悪いみたいですよ」
「結界って、あれ要するに、催眠術でしょ。人が無意識に嫌がるような匂いの薬草を植えて、絵札を立てて、山を下りたくなるように誘導してるだけよ。悪く使えば、私たちにも作用するけどね。あんた座敷牢に入ったことある? あそこの戸、ただの襖に見えるけど、模様の絵の具に、特別な香料が練り込まれてるの。霧吹きか何かで湿らせると、揮発する筋弛緩剤よ。襖も重くしてあるから、鍵なんか付けなくても、虜囚は部屋から出られなくなるわけ。刹那が自分で調合してる香料だから、中和剤を作れるのも刹那だけ。蘭香なんかはレシピを知ってるようだけど、口が堅いわね」
「そのシステムは存じてますが、このへんの木が雨に濡れると、やっぱり何かが良くないらしいですよ」
「墓所には通ってるけど、今まで何もなかったわよ」
「お前が気付かなかっただけだろう」
 神無が短くそう言った。雨に湿った手を従者の服で拭いながら、やはり短く続けた。
「先程から少し様子がおかしかった。自覚がないのだろう」
「私が? おかしいって、何がよ」
「宇宙がどうだの、永遠がどうだのと、よくわからんことを口走っていた」
「それは少しじゃなくて、最高に様子がおかしいと言うと思いますよ。やっぱ良くないんだなあ。雨の日の墓参りはやめた方がいいですねえ」
「は? ――ちょっと待って。いつから? どこからを、私の妄言だと主張するつもり?」
 神無は少し鬱陶しげに目を細めて、すたすたと歩き出した。斎観が同じ速度で追う。
 もちろん此紀も同じ速度で追った。
「神無。永遠の形は?」
「この調子だ」
「はあ、ヤバいですね。刹那様のお部屋に寄られた方がいいでしょう。付き添いますよ」
「斎観。強くてニューゲームっていうのは、あんたの語彙?」
「はい? ああ、神無様の予言についての仮説ですか? 俺はそういう感じで解釈してますが、まあ違うみたいですよ。着眼点は悪くないそうですが」
 現実と錯乱との境目が分からなくなる。
 いつから――どこから、どれが神無の言葉で、どれがそうではないのだろう。
 時系列で考えると、おそらく間違う。
 神無は薬物に耐性があるのだろう。だからおそらく、疑うべきは此紀の記憶だ。その程度の判断はできる。雨が降ってきたタイミングも、やはり記憶の中だ。あてにはならない。木立の中にいるせいで、地面の濡れ具合から測ることも難しい。いや、降り出した時間を逆算できたとして、照らし合わせる記憶に信憑性がない以上、あまり意味はない。
 ――時間の感覚は主観だ。
 頭の芯が疼くように痛む。
「ねえ――ねえ神無。まさか、そういうこと? 永遠や世界というのは、薬物で得られるような、そんな安易なもの?」
「世界とは脳の中身だ。世界は薬で簡単にいじることができる」
「もっと神秘的な世界観のある女だと思ってたわ!」
「神も秘め事も、脳の中だ。装飾したいのならすればいいが、その分、実態からは遠ざかる」
「あんたも結局、肉体主義者なの?」
「それが限界だ。限界点がなければ、無限に拡散する。それは存在していないのと等しい」
「あんたの名は、無限に遍在することを示すんじゃないの?」
「ふふ」
 ぱき、と小枝を踏んで、神無が立ち止まる。此紀を振り向いた。その白い顔。大きな黒い瞳。
「俺の名には意味なぞ無い。十月に生まれたというだけだ」
「ああ――それはまあ、そうなんでしょうけど」
「お前はなぜ名を変えた?」
 それまで話を聞き流していた様子の斎観が、やや興味を示したように此紀を見た。
 先頭が立ち止まったため、全員で立ち止まることになった。木の枝と葉に護られて、さほど雨には降られない場所だ。
 斎観に説明する。
「私の名前は、本当は『これのり』と読むのよ。今の呼び方になって長いから、あんたは知らないのかしら」
「あー、なんとなく、ちょっと珍しい読み方だとは思ってたんですが、変形でしたか」
「理由は何だったかしら。たぶん、万羽だかの滑舌が悪くて、呼びやすい方が浸透したとか、そういうつまらないことだと思うけど。もう覚えてないわ」
 神無が頷く。
「名は祝いにも呪いにも使うが、それは意味を見出す者がいるためだ。名そのものに意味はない」
「あんた、刹那の名前を馬鹿にしてたじゃない」
「覚えはない」
「ふうん。それも私の意識混迷ってこと? ところで、豪礼は子供たちにごっつい名前をつけるってこだわりがあるみたいだけど」
 その中ではまだ大人しい方の名前を持つ男が、苦笑いを浮かべる。
 神無はその男をちらりと見てから、また此紀を見た。
「当然、意味を見出す者もいよう。良きにつけ悪しきにつけ。子を魔の者から護るため、あえて悪い名を与える習わしも、さほど珍しくはない」
「日本では珍しいわよ。確か、アイヌにはそういう風習があったと思うけど」
「刹那というのは、おそらく意味を込めて与えられた名だろうな。象徴的だ」
「だから、永遠という意味なんじゃないの? ……ああ、はい。私の幻聴ね」
「永遠?」
 そう相槌を打ってきたのは斎観だった。
「刹那ってのは、一秒よりも短い時間、って意味だったと思いましたが」
「そう。時間の最小単位よ。もっとも無に近い有。小数点以下の、けれどけしてゼロにはならない存在よ。永遠は無なのか有なのか。どちらにしても、刹那は永遠に肉迫する存在だわ」
「なんか哲学的な話ですか?」
「概念的な話をぜんぶ哲学って言うのやめなさいよ。まあ、これはそうだけど」
「数学、あるいは社会学だろう」
 神無が短くそう言った。
 此紀や斎観が口を開く前に、神無はまた歩き出した。
 その後ろを追いながら、より近い方に問う。
「ねえ。神無に、社会学とかいう語彙はあるの?」
「ありましたね。見かけによらず学がおありになるので」
「社会学は私の先生の専門だったわ。だから――だから、その部分は私の幻聴だと認めようと思っていたけど」
「お身体は大丈夫ですか? 背負いましょうか」
「私は重いわよ。鍛えてるから」
 道が斜面に差し掛かる。神無は体重を持たないような軽い足取りで、なめらかに下りていく。屋敷から墓所までは、緩いアップダウンを繰り返す道が敷かれていた。他に歩けるような道はないため、迷うことはないが、距離感覚は曖昧になる。
「神無の雨避けにならなくていいの?」
「此紀様のお加減がよろしくないようですから。神無様は、あれだけスタスタ歩いてらっしゃるんで、大丈夫でしょう」
「じゃあ世間話に付き合ってちょうだい。あんた、永遠に生きたいと思ったりする?」
「不老不死ってことですか? 昔から思ってたんですが、そうすると、地球で最後の一人になるってことですよね。餓死するんでは?」
「まあ、そうだけど」
「何も食わなくても死なないんなら、永久機関ですね。それはもう、生き物っつうより、地球の装置の一部になるんじゃないですか? つか、地球にも寿命があるんでしたっけ。地球よりも長生きするんなら、宇宙の一部か」
「なるほど。社会学の終着点ね」
「そうなんですか? 地球で最後の一人なら、社会ってもんは、もう存在しないんじゃないですか?」
「一人でも社会は成り立つ、という意見もあるわ。ただ未来性は考慮に入ってないでしょうから、地球で最後の一人になったとき、社会は死んでいるのか、自分が社会を維持するのかと問われて、後者を支持できる者は少ないんじゃないかしら」
「難しい話はよくわかりませんが」
「私はね、社会の最小単位は三人だと思ってるのよ。たとえば、私と神無とあんた。この数メートルの範囲にも、社会は存在している。もっとも小さな規模でね」
「ここから一人減ると、社会は無くなるんですか?」
「私はそう思う。一人と二人は変わらないけれど、三人になった時点で、話は違ってくるから。刹那と万羽の違いね。小数点以下と、一万とでは、社会の規模だけでなく、そもそも有無が変わるわ」
「よくわかんねえなあ。一人と二人は変わらない、ってとこが」
「二人なら、それは鏡と区別がつかないから、一人と同じことよ」
「いやあ、鏡じゃねえでしょう。俺が鏡を見ても、あなたみたいな美女は映りませんよ」
「それはまだ社会の中にいるからで、もし世界に私とあんたが二人きりになったら、いずれ判断できなくなると思うわよ」
「なりませんよ」
「断言するのね」
「俺の世界には長いこと、俺と神無様の二人きりでしたが、鏡だと思ったことはありませんから」
 中世のヨーロッパにおいて、愚者――jester――とは、王侯貴族にさえ発言力を有した賢者、あるいは狂人のことである。
 日本の歴史における巫女は、その存在にきわめて近い。
 巫女と愚者。此紀から見れば、鏡映しに適した二人組であるが。
 鏡ではない、と愚者の方が言う。
「あと、三面鏡ってあるじゃないですか。二人だと鏡なら、三人でも鏡なんでは?」
「鏡――合わせ鏡はそもそも、無限の象徴ね。要するに、有限と無限の境目、つまり社会の最小単位の話に戻るわけだけど」
「インテリの話はわかんねえー。桐生はそういう話に付いて行けてるんですか?」
「あんたも付いて来てるほうでしょ」
「いやあ、仰ってることはほとんど理解できてません。一人と二人は全然違うと思うんで」
「きっと、あんたの想定する二人目は、常に神無なのよ。そうでしょ」
「え? あー、それはありますね。ああ、なるほど。神無様がいない世界なら、一人でも二人でも三人でも、たいして変わらんかなあ」
「私の二人目は、すでに世界から失われたから、誰が二人目になろうが、もう同じなのよ。変革するのは三人目から。鏡が割れて、社会が生まれる」
「ううん? 話噛み合ってますか? なんで三人目が現れた瞬間、急に世界が変わるんです?」
「世界は変わらないわ。社会が生まれるという話。端的に言うと、唯一性が失われるのね。世界に私とあんたの二人なら、お互いがオンリーワンであり、ナンバーワンであり、ワーストワンでしょ。でもここに神無が加わると、ランキングが構成される。社会とはそういうことよ。ランキングとは社会性なの。あんたの提唱する三面鏡は、ここで割れる。三人の時点で相対性が生まれるから、鏡ではないことに気付いてしまう」
「わかるような、わからんような。唯一性は、二人の時点で失われるんでは? 相対性が生まれるのも、やっぱり二人からだと思うんですが」
 それは価値観の違いだ、と説明しようとしたところで、巫女様のよく通る声が響いた。
「陰陽太極図は、白と黒との二色で描かれ、対称だ。そういうことだろう」
「そう。そういうことよ」
「ええー。どういうことだかわからん」
「太極図はわかるでしょ? こう、白と黒の勾玉模様が互い違いに組み合った、円の絵よ。円は完成形。割れていない鏡。二色で完成している世界に、三色目が入ってきたら、この図は壊れてしまうわけ」
「円グラフって、別に何色に塗り分けてもいいわけでしょう」
「グラフは社会よ。太極図は世界」
「普段からそういう小難しいこと考えて生きてらっしゃるんですか?」
「私は宮廷道化師でも、未来視の巫女でもないから、いろいろ考えないといけないのよ。凡庸に生まれると、仕事が多いの」
「凡庸とはまた。一族きっての才女とは思えない仰りようですね」
「才女になるしかなかったのよ。刹那と同じ。万の祝福を受けなかった者は、頭を使って生きるしかないの。考えるほど遠ざかるのだとしてもね」
 目の前の道が広がってきた。ここからもう少し下れば、屋敷の裏庭に出る。
 戻りたくない、となぜか思った。
 刹那の結界の効果だろう。かの血統にのみ伝えられる催眠術。どのような草を、何種類、どういう法則で組み合わせているのか、薬学の知識を持つ此紀にもわからないよう、刹那は複雑に植え付けを行っている。
 あの男は此紀を信用していないのだろうか。
 神無が斜面を下りながら、何かを言った。
 聞き取れなかったため、「何?」と尋ねる。神無は応えた。
「このあたりの道には、ブドウの木があるだろう」
「あるわね。不味いけど」
「その実からブドウ酒を作り、小瓶に詰めて持ち歩くといい」
「すっごいめんどくさいおまじないね」
「ブドウ酒を作るのは違法なのだろう。そのことに意味がある」
「わざわざ酒税法なんか犯すまでもなく、じゃんじゃん余罪が重なってるから安心して」
「それは生きるためだろう。火急ではないことを、ひそやかに行い、信じる。それが現代におけるまじないだ。
「はあ、まあ、そうなんでしょうけど」
「お前はそういうことをした方がいい。ごちゃごちゃと要らんことをしろ。沙羅のように土を捏ねて、豪礼のように蕎麦を打て」
「中高年の趣味の世界に入れってこと?」
「そうだな」
「俺の家庭菜園に参加されますか? 初心者歓迎ですよ。採りたての野菜、瑞々しい果物、可愛らしいモグラ」
「美しいところだけ切り出してるじゃない。アブラムシと鶏糞の話もしなさいよ」
「斎観のほうが賢い。美しいものを切り出して暮らせ」
「どんなに耽美なふりをして暮らしたって、私たちは肉食の肉袋よ。代謝の鈍いこの身体を、どう運用すれば快適に生きられるか。私はそれを考えるのが仕事なんだから、美しいものなんか見てる暇はないわよ」
「墓に通う暇はあるのだろう」
 雨足が少し強くなってきた。服と髪が湿ってくる。
「ねえ神無。たとえば、この道が永遠に続くとして。あんたはそのことをどう思う?」
「全身が濡れて冷える。不快だ」
「じゃあ、雨が降っていなかったらどう?」
「腹が減る」
「減らなかったとしたら?」
「装置になるのだろう。斎観が言ったように」
「あんたの気持ちは? 私と斎観と、この山道に閉じ込められて、装置になる。それについての感想は?」
「今とさして変わらない。腹が減らなくなるのなら、楽だろうな」
「装置として、何をして過ごすつもり?」
「今とさして変わらない」
「まあ、あんたたちはそうかもね。ろくに部屋からも出てこないもの」
「新世界の王としては、正妻にも第二夫人にも、なるべく平等に接するようにします」
「序列としては神無が王でしょ」
「ふ」
 神無が少し笑った。
「男と女と知恵者か」
「誰が蛇よ」
「ちょうど木の実も成っている。ブドウだが」
「ブドウ説もあるわよ。前提と照らし合わせると、錠前を開く鍵ね。装置にとっては邪魔だわ」
「もうひとつの実かも知れんぞ。なれば錠前が開く道理もない」
「セフィロトのほう? それはもう食べた前提なんじゃないの?」
「いずれにしろ、施錠が永久ならば、三色の太極図となるな。三つ巴だ」
「メッチャ話に付いて行けねえ」
「ねえ神無。宗教論を抜きにして、あんたの価値観において。回し車のねずみが生むエネルギーは、絶望なの? 希望なの?」
「閉じ込められたエネルギーに指向性はない。ねずみが疲れを自覚するまでの刹那、あるいは永遠。それが解像度の高い太極図だ」
「あ、そうだ。刹那様の猫が産んだ子供、一匹もらえるそうですよ。神無様、ペット飼いたがってらしたでしょう」
「俺が欲しかったのは犬だ。猫は障子を破るだろう。要らん」
「ええー。白威なんかもう名前つけて飼う気になってんのに」
「白威が飼えばいい」
「あいつ自分の部屋持ってないから、無理でしょう。刹那様も、もらい手が見つからなくて困ってるらしいですよ。あ、此紀様は猫とか」
「私は構わないけど、世話するのは桐生になるでしょ。あの子、動物が嫌いだったと思うけど」
「確かに。あいつが小っさい頃、犬に追い回されて泣いてたことがあるんですが、まだ覚えてんのかなあ。野良犬見ると、石投げて追い払ってますね」
「許せん」
 神無が立ち止まり、振り向いた。
「そういう時は叱れ。犬を痛めつけるな」
「足は速いですが、ピッチャーとしてはノーコンなんで、当たりませんよ。威嚇でしょう」
「犬を威嚇するな」
「それはあいつが判断することであって、俺が教育することじゃないと思うんですが。野犬は危ないっつうのは事実ですし」
「この山の犬は、神の使いだ」
「それ絶対今考えましたよね。神無様が仰るとマジで麓の村の文献とかに載っちゃうんで、あんまり歴史を捏造なさらないでください」
 その軽やかなやり取りに、此紀は少し驚く。
 付き合いの年月で言えば、此紀の方が神無とは長い。だが、神無の謎めいた、おそらくは気まぐれの混じった言葉を、此紀はいちいち真剣に捉えてしまう。
 斎観のように、冗談として流した方がいいらしい。
 実際は――冗談ではなかったとしても。
 受け手がそう解釈すれば、それは冗談となる。コミュニケーションとはそういうものだ。真実性は関係ない。
 関係ない、ということもないのだが――
 何に重きを置くか、ということだ。
 斎観の場合、神無と言葉を交わすこと、そして神無の機嫌を取ることだけを考えているのだろう。
 神無の内側を探ろうという気はないらしい。
 そして神無は、この男を気に入って、長く置いている。
 此紀とは違う価値観、そして世界観を持って生きている女だ。
「心の通じ合いを求めるのは、巫女様から見れば、愚かなことなの?」
「奪うのならば理解はできる。手を差し伸べても、野良犬ならば噛み付こう」
「優しく接してたら噛まれるから、抱き上げてさらってしまえ、ということ?」
「違う。俺よりは斎観のほうが詳しかろう。それに聞け」
 そう言って、神無はまた歩き出す。
 斎観も主を追う。此紀ももちろん追った。
 ――まだ道は続くのだろうか。
 そんなことを思う。もうずっと歩いている気がした。そろそろ着く頃だと思うのだが、小柄な女と大柄な男が近くにいるせいで、遠近感が狂う。
「私が知りたいのは、斎観じゃなくて、あんたの世界観なのよ!」
 此紀が縋るように叫んでも、神無は振り向かない。野良犬の話題では、立ち止まりさえしたのに。
「私は野良犬よりどうでもいい存在ってこと!?」
「そんなことはない。お前は一族に必要な女だ」
「あんたにとっては不必要なんでしょ!?」
「神無様には何も必要じゃありませんよ」
 男の声は、それこそ――神託のように、静かな森の中に響いた。
 おそらく、何の気なしに発した言葉なのだろうが。
 神無の内面に関心のない男のほうが、神無のことを理解している。
 その――此紀がよく遭遇する――世界の理不尽に、此紀は耐えることができない。
 もちろん、理性では理解している。関心を向けたからといって、同じ量の関心が返されるわけではない。それは当然のことだった。
 だが。それでも。
「神無」
 追う。此紀の脚は、一族の女の中では、おそらくもっとも長い。だが斎観には負ける。速度を上げなければ、神無の背に追いつかない。
「先生の代わりがいるとしたら、それはきっと、あんただけだったのに」
「いいや。此紀」
 神無は振り向かない。その静かな声だけが、雨の森を震わせる。
「お前の師の代わりは居ない。お前の師が、お前に教えたはずだ」
「じゃあ、意味ありげなことを言わないでよ。私の心をかき乱さないで」
「縦に積み重なる世界を、お前はなぜ横に広げようとする? 世界に広さは必要なのか? お前と、お前の師と。二人分の世界なら、さほど敷地も要るまいに。領土を奪い合うことで、世界は争う。お前の師はそれを嫌ったはずだ」
 鼻の奥、というよりも目の奥で、ある種の毒が持つ、木の実のような甘い香りを感じた。幻覚が生じているのだろう。
 歩行に影響はない。ただ、ひどく疲れてきた。もうずっと、本当にずっと、この道を歩いている気がする。
 まだ到着しないのだろうか。
 だが、到着しないでほしい。
 この小道に閉じ込められるのは、悪くはない。典雅が居ないというのが気に入った。あの男が一緒にいると、師の寵愛を奪い合うことになる。
 師は――もう居ないのだが。
 師に似た女が、前を歩いている。
「斎観」
「大丈夫ですか? お顔の色が」
「あんたは典雅よりもいい男だわ」
「マジですか。やったあ。言いふらそう」
 森はまだ続く。
 指先が冷えてきた、と感じる。寒いというほどではないが。
「傘を持ってくるべきでしたねえ」
 斎観がそう言うのを、ぼんやりと聞いた。
「どうも、空が暗い気がします。降ってくる前に戻れりゃいいんですが。神無様は雨がお嫌いですしね」
 神無が何か答えたような気もしたが、どうでもよかった。
 いつまでこの道を歩くのだろう――と、此紀は考えていた。






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