ゆるおに あるいは青い石

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あるいは青い石
「16 あるいは青い石」



 万羽からはいつも、洋菓子のような甘い香りがする。
 香水とシャンプーと体臭が混ざった結果、そうなっているのだろう。身なりに厳しい父親を持つこの女は、必ず風呂に入り、髪を乾かし、化粧をしてから此紀の部屋を訪れる。
 此紀の愛人は、過去も現在も、ほぼすべてが男である。女に触れたことはほとんどない。興味がないからだ。女とどうこうなる手間や時間があるのならば、男に回したかった。
 此紀の弟弟子も男を好むが、あれは義務として、女もそこそこ抱いている。
 手を出した女のことをいちいち話す男ではないが、おそらく、万羽とも寝ている。それはなんとなく、空気から察せられた。
 生きる世界の狭さに嫌気がさすのは、こういう時である。
「ねー、マスカラ落ちてない?」
 起きて自分で鏡を見ればよかろうに、枕に頭を乗せたまま、化粧崩れの確認を要求してくる。
 布団から出ようとしたところだったが、一応、見てやった。潤んだ目を持つ万羽は、水に強いタイプの化粧品を使っているはずだが、目尻がわずかに黒くなっていた。
「アイラインがちょっとだけ滲んでる。じっとして」
「んー」
 目を瞑った万羽の化粧を、指でさっと直してやる。
 二秒で直るのだから、便利な顔の女だ。
 憎たらしくなり、頬を軽く抓ってやった。
「なによう」
「なんで自分より綺麗な女の化粧を直してやらないといけないのよ。腹立つわね」
「えへ」
「褒めてる文脈じゃないでしょ」
 ぴん、と軽く額を弾いてやると、しゅんとした表情になった。
「あたしのこと嫌い?」
「なんで嫌いな女のことを抱いてやらないといけないのよ。誰かが来たら面倒だから、早く服着て帰ってくれない?」
「なんでおんなじこと言うの?」
「誰とよ。あんたはどんな男からも、お姫様みたいに大事にされるでしょ。私以外の女とも寝てるわけ?」
「焼きもち?」
「文脈を読み取る力を鍛えなさい。読書なさい、読書。あんたなら柚木麻子とか好きなんじゃないの。『ナイルパーチの女子会』か『本屋さんのダイアナ』にしなさい。貸してあげるから」
「えー。本って読んでると頭痛くなるんだもん」
 それは事実であるようだった。おそらく視力が関係している。細かい文字を見ていると、眼精疲労から頭痛が起きるのだろう。
 精密な検査を行ったことはないが、此紀が見る限り、万羽は乱視と弱視を併発している。父系からの遺伝だろう。
「電子書籍だと、文字のサイズを大きくできるわよ。それならあんたでも読みやすいんじゃないの」
「此紀があたしに読んでよ」
「なんで私があんたに小説を読み聞かせてやらないといけないのよ。私はあんたの男じゃないんだから、甘えないで」
「冷たい」
 そう言って唇を尖らせたので、その唇を指でつまんでやる。
「んー!」
「優しくしてやったでしょ! 男にだって、あそこまで丁寧にしないわよ! 料金払ってほしいくらいだわ!」
「うー!」
 離してやると、指に軽く噛み付いてきた。
「よく洗ってない指を口に入れられるわね」
「べつにー。気にしないもん」
 よく光を反射する、大きな瞳で見上げてくる。
 いつ、どの角度から見ても、愛らしい顔をしている。この女を拒む男は居ないだろう。
 女に興味のない此紀でさえ、万羽に擦り寄られると、悪い気はしない。
 布団から出るつもりでいたが、寒くなってきたため、中に戻る。
「あんたは見かけで得してるわね。弥風に感謝しなさいよ」
「あたしキレイ?」
 両手で万羽の口の端を引っ張り、口裂け女にしてやる。さすがに少し不細工になった。
 手を離す。
「ふふん」
「なんで意地悪するのよう」
「可愛いからいじめたくなるのよ。ふふふふ」
 つつ、と白い喉を触り、鎖骨に指先を這わせる。
「くすぐったい」
「くすぐってるのよ」
 万羽は全身を鍛えているが、皮膚はなめらかで柔らかい。豊かな乳房の脇を通り、腰骨の上をくすぐる。万羽はここが弱い。
「やーっ、めてよ、もーっ」
「やめてほしかったら、さっさと起きて、服を着て、部屋に帰ってちょうだい」
「ひとりで寝ると寂しいんだもん」
「東埜を抱き枕にすりゃいいでしょ」
「あんまり呼びつけると嫌われるんだもん!」
 すでに嫌われているだろうに、という言葉は、さすがに控えてやる。
 誰からも好かれそうなこの女が、男から嫌われることは珍しい。ただ、理由はわかる気がした。
 東埜は、典雅や桐生と近い気質を持っている。生まれつき女に好かれ、求められ、しがみつかれやすいために、それを鬱陶しく感じるのだろう。
 あの男たちは、愛する一部の者と、それ以外のどうでもいい者とを、はっきり区別する。残念ながら万羽は、後者に振り分けられてしまったらしい。
 東埜が勝手に振り分けたわけではなく、万羽にも原因がある。万羽自身も、うすうすはそのことに気付いているのだろう。
「私を東埜の代わりにされても困るんだけど。暇じゃないのよ」
「代わりじゃないわよう」
 きゅう、と此紀の乳房に額をうずめてくる。
 万羽は、良くも悪くも、あまり計算して行動するタイプではない。だから此紀にとっては可愛らしい女なのだが、東埜にとっては、この無邪気さが気に障るのだろう。
「よしよし。可愛い可愛い」
「可愛いのは知ってる」
「あっそう。おっぱいは堅いけどね」
 筋肉で支えられている乳房を両手で揉む。この弾力もそれはそれで良いのだろうが、この胸をうっとりと眺めている桐生が知れば、気落ちしそうな触り心地ではあった。
 もしかするとこの触り心地も、東埜が寄りつかない一因であるのかも知れない。男というものは正直だ。心が離れていても、身体が合えば、そうそう離れないものである。
「文句言うなら揉まないでよー」
「揉まれたくないなら、私の部屋に来なきゃいいでしょ」
「別にこういうことしなくても、一緒に寝たいだけ」
「あんたはそうでも、そんな可愛い顔で寄って来られたら、手くらい出したくなるわ」
「いやらしい」
「そうよ。知ってるでしょ。私はそのへんの男よりいやらしいわよ。煙草吸っていい?」
「だあめ」
 顔を上げて、ちゅ、と唇を合わせてくる。
 可愛いので舌を入れてやった。男と違い、唇も口内も柔らかく、唾液の量が多いような気がする。単に万羽個体の体質かも知れないが、他の女のことなど知りはしない。
 クチュクチュと音を立てて舌を絡めてやると、万羽はいつも頬に赤みがさしてくる。
「んー。んん……」
「ん。私は仕事が残ってるから、こんなことしてる場合じゃないんだけど」
「仕事とあたしとどっちが大事なの……」
 両腕を此紀の首に回し、拗ねるように見上げてくる。
 何かが決定的に間違っているが、この女が可愛いというのは事実だった。
 柔らかい唇が首筋に押し付けられた。
「あ、ちょっと、痕つけないでよ。もう年だから、消すのも楽じゃないのよ。男に見られると面倒だわ」
「なによう。あたしより男の方がいいの?」
「そりゃそうよ。あんただってそうでしょ」
「そうだけどー」
 むにゃむにゃと乳房を押し付けてくる。力士の胴体などはこういう感触なのだろう。
 たまに試す分には悪くないが、普段は使わない体力を消耗するため、終わった後は気だるくなる。
「……煙草吸いたいんだけど」
「ん」
 またキスをしてきた。
 万羽の愛人ならば、これで喫煙を諦めるのかも知れないが。
「あんた、自分の唇の方が煙草よりも価値が高いと思ってるの?」
「えー! ひどい!」
「あんたキス下手だし」
「ひどいっ」
 きゃんきゃんとうるさい女の顎を掴んで、ディープキスを見舞ってやった。
 柔らかい口の中を濃厚に舐め回し、とろりと唾液を交換して、舌を愛撫する。やはり男の舌よりは薄く、小さく感じる。この全身を筋肉で整えた女でも、舌までは鍛えていないらしい。
 男の唾液の味を感じたことはあまりないが、万羽の口内はほんのりと甘い。ブレスケアの類だろう。
 唇も柔らかいが、少し乾燥しているようにも感じた。ひび割れないよう、舌で舐めてやる。
「んっ……。んっ……」
 万羽の鼻から、ふわふわとした声が抜けてくる。
 さらに顔を傾けて、粘膜の密着度を深める。舌の付け根まで、ねっとりと丁寧に舐めてやった。
「んん……。ん、……っ」
 ぎゅう、と首を抱かれる。唇を合わせたまま、中で舌を駆使し、万羽の口の中を舐め続けた。優しく、乱暴に、緩急をつけて、口腔粘膜を刺激する。
 万羽の声が切なげに高くなったところで、唇を離した。
 ぼうっと瞳を潤ませた女を見下ろす。
「あんたキスは下手だけど、味はいいわ。ブレスケアはスプレー? 桃? リンゴ?」
「……え、……。……タブレットで……桃? だと思う。ピンク色だから」
「キスが好きなら、神無が上手いわよ。気が向けばしてくれるんじゃないの」
「むー!」
 触れるように軽く、頬を叩いてきた。
「いじわる」
「ティントグロスは唇が乾燥しやすいから、美容液を併せて使った方がいいわよ」
「使ってるけど、キスしたら取れちゃうでしょ」
「普段からのケアが足りないのよ。煙草吸っていい?」
「身体に悪いからだめっ」
「鬱陶しい女ね! あんた私の何なのよ。たまに寝るくらいで女房ヅラしないでよ」
 半分は冗談だったが、万羽は膨れっ面になった。
「何の関係もなくたって、心配くらいしてもいいでしょ」
「寂しさは自分で処理して。他者に押し付けることで霧散させようとしないでよ」
「あたしの寂しさの話じゃなくてー。此紀の身体のことでしょ。最近、あんまり良くないんでしょ」
「歳を取っただけよ。生きて老いて死ぬ。自然なことよ」
「煙草吸う言い訳になってない」
「別に言い訳じゃないもの。あんまり長生きしたいとは思ってないわ。そのわりには生きたけどね」
「そういうこと言わないでよ。……誰か死ぬと悲しいでしょ」
 本当に悲しそうな声だったため、少し反省する。
 長寿の鬼は、多くの同胞の死を看取っている。万羽は特に多い方だろう。
 ぽんぽんと頭を撫でる。
「悪かったわよ。あんたの前では吸わないから」
「あたしの前じゃなくても吸わないでよ」
「それは無理」
「じゃあ、ずっと側にいる」
「ふっ。ふふふふふ」
 甘いにおいのする、弾力のある身体を抱き締める。
「世界で一番可愛いわ、あんたは」
「知ってる」
「けどごめんね。私はあんたを選んであげられないわ」
「あたしが女だから?」
「そうじゃないの。あんたが男でも女でも好きよ。あんたを作ったから、弥風は偉いわ」
「どうして誰もあたしを選んでくれないの?」
「一般論で言うなら、あんたには誰も必要じゃないからでしょ。あんたは世界で一番可愛くて、それは世界で一番完成しているということよ。手を入れる必要がないという意味。誰しも、相手に必要とされないのは不安だわ」
「知らない。そんなのあたしのせいじゃない」
「そうよ。誰のせいでもないわ。あんたが何もかもを持って生まれたせいで、誰からも選ばれないことは、誰のせいでもないの」
「それって、何も持ってないのと同じじゃない」
 あまり読解力に長けた女ではないが、野生の獣のような勘の鋭さを持っている。本質に至る速度が一瞬だ。
 それがまた、男を怯えさせるのかも知れない。万羽は裏表のない女だが、それは必ずしも良いことではない、という話だろう。
 タイプとしては沙羅が似ているが、沙羅はああ見えて、意外と隙がある。そして万羽はこう見えて、意外と隙がないのだ。
 隙のない女というものは、女が見ても恐ろしい。男からすれば尚更だろう。
 典雅などは女の観察を緻密に行う男であるから、もっと手厳しく評するかも知れない。
「あんたは私のつがいじゃなくても、可愛い女よ。みんな、じゃないかも知れないけど、大体の者はあんたを好きよ。それでも寂しい?」
「……わかんないけど、選ばれてみたい」
「あんたは鎖国した王城のお姫様。だから婿なんか要らない。それでいいと思うけど、それでいいかどうかと、あんたが寂しいかどうかは、関係のないことだものね」
 この姫君に呪いをかけた者がいるとすれば、それは父か師だろう。狭い王国では、魔術師も限られる。
「宣水は悪い師ね。あんたを置いて行っちゃうなんて」
「そうでしょ。そう思うでしょ」
「宣水があんたを選べば、それで満足だった?」
「……選ばないもん。あたしよりも和泉を選ぶわよ」
「弥風はあんたを選んだんじゃないの?」
「そう? ……あたしが逆らわなかったから残しただけじゃない?」
「ああ、そこで相対論が機能しちゃうわけね」
 ならば、呪いをかけたのは弥風だ。
 親の因果が子に報いた、ということだろう。
「あんたが望む世界の形は、神無の小さな王国に似てるのかしら」
「……違うと思う。神無のやり方は……少し気持ち悪い」
「まあ、あんたならそう言うのかしらね。洗脳して従えたいんじゃなくて、王子様に求愛されたいんでしょ? 少女趣味だわ」
 神無は女王様趣味である。
 万羽は少し黙っていたが、「ちょっと違うかも」と此紀の腕の中で言った。
「そういうのじゃなくて、……うまく言えないけど」
「本を読まないからよ」
「うー。……なんていうか。……あたしは……ええと。あたしのスペアが欲しいのかも」
「あら」
 比較的、珍しい形の欲求のような気がする。
 スペアというのは、おそらくあまり適切な語彙ではない。この女は本を読まないからだ。
 万羽が求めるものは、おそらく、影である。
 足元についてきて、己の姿を証明する、顔も実体もない、自分のためのレプリカント。
 孤高の姫君らしい、本質的に他者を必要としない、美しく閉塞した望みだった。
 ナルシズムというよりはエゴイズムだ。
 この女が白雪姫の母親ならば、鏡に何かを問うことはしないだろう。毎朝、鏡を眺めて、にっこり微笑み、鏡の縁を撫でるのだろう。その手触りこそが、万羽の寂しさを埋めるものであるはずだ。
 たぶん。
 知らないが。
 そう、実際のところなど知りはしない。此紀は、豪礼のように、さとりの化け物ではない。神無のように、未来視の巫女でもない。言葉と吐息と、擦り寄ってくる体温と、その距離から、勝手に推測するだけだ。
 大阪の大学病院で学んだものは、医学と、関西弁の利便性である。ひとこと「知らんけど」と付け足すだけで、これらの機微を示すことができる。
「あんたなら世界で一人きりでも、二人きりでも、生きていけるわね。二人は鏡。どのみち一人」
「えー。一人だと寂しい」
「今も一人なんじゃないの?」
 万羽の長い髪が、此紀の腕の中でさらりと流れた。甘い香りが漂う。
「一人だと寂しいけど、此紀と二人なら寂しくないかも」
「多分あんたに説明しても伝わらないと思うけど、世界が二人で閉塞すると、それは一人になるのと同じことよ。私はあんたのスペアでもなく、影でもなく、あんたの鏡映しになってしまう。それは一人と同じことよ」
「あたしはあたしで、此紀は此紀で、二人でしょ。一人じゃないわ」
「神無や斎観には通じるかも知れないと思ったけど、多分あんたには通じないから、まあこれ以上は言わないわ」
「にゃによう!」
「馬鹿にしてるんじゃなくて、敬意を払ってるのよ。あんたはきっと、硬度の高いガラスの城のような、美しい世界観を築いてるんでしょ。そこに私の言葉が侵入できるとは思えないから」
「アナと雪の女王?」
「氷でしょあれは。でも、近いのかも知れないわね。少しも寒くないというのは、きっと本当だけど、寒くなければいいというわけじゃないもの。あんたは寒くはないけど、城に一人ぼっちなのが寂しいんでしょ。けど、王国の民が欲しいわけじゃない。等身大の鏡が欲しいだけ」
「違うわ。たぶん」
 甘えたように喋るこの女にしては、少し冷たく感じるほどの、きっぱりとした声だった。
「うまく言えないけど……違うわ」
「そう?」
「スペアっていうのが、たぶん違ったわ。……ええと。……そばにいて、変わらないものが欲しい、のかも」
「永遠ということ? あんたは永遠志望者?」
「ううん。あたしと一緒に変わってほしいの」
 それはやはり、影であり、鏡であると思うが。
 おそらく、此紀は万羽の世界観を、それほど精密には汲み取れていない。だから実際は、まったく違うことを言いたいのかも知れない。
「本を読みなさい」
「そればっかりー!」
「あんたの世界を知りたいのよ。そのために、心を通わせるために、まずは言葉を通わせるのは、まあ無駄なことじゃないわ。もちろん、言葉では伝わらない多くのものがあるけれど、言葉で通じるわずかなものでも、触れないよりは近付けると思うわよ」
「なんか」
 言葉を探しているのだろう。かなり長くの間を置いて、万羽は小さな声で言った。
「喋る方が、喋らないより、あたしのことが伝わらない気がする」
 ――測るほど遠ざかる。
 ――言葉にすると嘘になる。
 神無や宣水の言葉だ。宣水はよく喋る男だが、同時に、それを口癖にしてもいた。
 万羽の口からも、同じことが出てくるのか。
 論旨はもちろん理解できるが、この三者から、ほぼ同じ言葉で語られると、此紀はたじろいでしまう。自分だけが取り残され、世界の異物になったような気がする。
 万羽の指が、此紀の耳飾りに触れた。亡霊の遺物。呪いの残滓の可視化。
「……石にあんまり触らないで」
「赤よりも青の方が似合うのに」
「そう? それは初めて言われたわ」
「あたしが青い石を買ったら、着けてくれる?」
「あら。買ってくれるの? 受け取るの専門でしょ」
「答えてよ。サファイアやラピスラズリより、タンザナイトね。朝焼けの色にキラキラ光る、涙型の、綺麗なカットのピアスを買ったら、そうやっていつも着けてくれる?」
「青い石に合う服を持ってないわ」
「あたしの、白いシルクのブラウスシャツをあげる。此紀が褒めてくれた、胸とウエストのラインが綺麗に出る、あの細身のよ。あんまり体型は変わらないから、きっと似合うわ」
「嫌よ。あんたは約束を守るから」
 万羽の髪を、そっと指でかき上げる。形の良い耳朶に、愛らしい細工のピアスを着けていた。淡い飴色の宝石が、繊細な花の形に組み合わされている。イエローダイヤモンドかとも思ったが、この女の誕生月からして、シトリンかも知れない。
 万羽を愛人にする男は、きっとロマンチストだろう。いかにも女に誕生石を贈りそうだ。
「私は青い石も白いブラウスも要らないけど、あんたに指輪を買ってあげましょうか」
「おそろい?」
「なんであんたとペアリング着けなきゃいけないのよ」
「ぶー!」
「細いプラチナの、小さな石の入ったピンキーリングよ。私の柄じゃないけど、あんたなら似合うわ。石は淡いピンクのトパーズがいいわね。あんたの好きなアルハンブラにも合うでしょう」
 万羽は自分の左手をじっと見た。今は指輪を嵌めていない。薬品荒れした此紀とは違う、白く綺麗な手だ。爪は艶消しのベージュに塗られていた。
「あんた顔に似合わず、ババアみたいなネイルしてるわね」
「弥風の会社のパーティに出たから、地味にしたの!」
「右近のネイルアート、東雲がやってるらしいわよ。私たちは爪が伸びるのが遅いんだから、ジェルにすりゃいいのに」
「え? あの虹とか星とかマイメロとか、東雲が描いてるの? すごい」
「マイメロは見たことないけど。そういうのはシールなんじゃないの、さすがに」
 右近は水墨画だか、水彩画だかを描いており、なかなか達者だったはずだ。絵心のある血筋なのだろう。化粧も上手いと言えないこともない。素顔とはまったく違う顔を作ることに成功している。
 何かしらの才覚を持つ者も、万羽ほど美しい女も、この山の中から出ることはできない。
 籠の鳥は、無闇に鮮やかな羽根を散らすだけだ。
 ――宣水と沙羅だけが羽ばたいた。
 神無の言葉だ。あの鳥たちは、籠の狭さを見限り、外の世界へと向かった。
 二世紀も前ならば、許されることではなかったはずだ。
 この、時間が止まったような山の中にも、確実に時代の流れは押し寄せている。
「いーなー。あたしも東雲にやってもらおっかな」
「どうかしらね。東雲はあんたみたいな女がタイプじゃないと思うわよ」
「えー。わかんないじゃない」
 アヒル口をまたつまむ。
「むー!」
「あんたは沙羅の上位互換だから。東雲は沙羅が苦手でしょ。ああいう男は、自分が見通せるレベルの女が好きなのよ。入りやすい家が好きなの。強化ガラスの城にはチャレンジする気もないはずよ」
「むまー」
 奇声を発しながら此紀の手を払い、万羽はむくれた。
「わかんないじゃない。あたしはあたしよ。ガラスの城だとか思ってるのは此紀だけで、東雲はあたしのこと、わらの家だと思ってるかも知れないでしょ」
「いつも思うんだけど、木造の家が駄目なのって厳しいわよね。末子成功譚の典型だけど、その引き立て役として、上の兄弟が理不尽に損をするのは納得できないわ」
「おとぎ話とかって、だいたい理不尽なんじゃないの? 浦島太郎とか。玉手箱って、ただの嫌がらせでしょ」
「玉手箱は驕れる神によるテストでしょうね。隣のじいさんが踊ってこぶを取ってもらったなら、そりゃ自分だって踊ってこぶを取ってもらいたい。これは当たり前の考えであって、隣のじいさんがこぶを増やされる謂れはないわ。『理由は明かさないが、約束は守れ』『無欲であれ』って、それは上位の者の傲慢よ。弱者は強者の言いなりになって、弱者のままでいろという、乱暴きわまりない理論だわ。上昇志向の否定よ。上位の者なら、弱者を救いなさい。隣のじいさんのこぶも取りなさいよ。ノブレス・オブリージュを実施なさい」
「じいさんのこぶ取ったり付けたりしたのって、神とかじゃなくて、鬼でしょ。最初のじいさんのこぶだって、良かれと思って取ったわけじゃないでしょ? 意地悪で取ったんじゃなかった? だから隣のじいさんのこぶを増やしたのは、『良かれと思って』じゃないの? 鬼的には、取り上げたものを返してあげたんでしょ? こういうの、たぶん色んなバージョンあるんだろうけど、あたしと此紀が知ってるのは同じ話でしょ」
「……それは作中の設定であって、教訓とされているものが気に入らない、という意味よ」
「んー」
 此紀の二の腕を唇で食みながら、万羽は言った。
「此紀は優しいけど、厳しすぎると思う」
「私が? 何に?」
「驕れる神に。神なら驕ってもよくない? そういうものじゃない?」
 こういうときに、万羽との価値観の乖離を実感する。
 万羽は、驕れる神に肩入れしているわけではない。
 ただ客観的に、そう感じているのだろう。
 可愛い女だが、恐ろしい血筋の鬼でもある。驕れる神を審判する者。俯瞰と客観の最上位。ガラスの城の頂上から見下ろしている。その視線は、地上に着くまでに冷える。万羽の意思とは関係なく。
 傲慢と審判は、羊の身からは区別がつかない。
 驕ることこそ神の仕事であり、それはつまり、神ではない者が驕ることは、けして許されない。
 万羽の父は、独裁政権を引き受けた。傲慢と謗られることを選び、孤独に審判を下している。神無は別の言葉で表現していた気もするが。
 弥風の末子は、どうやらその正統後継者であるようだった。
「ねえ万羽」
「なあに」
「やっぱり、あんたに指輪を買ってあげる。あんたは左手の薬指に指輪を嵌めることはないから、ピンキーリングは合うでしょう。今度買いに行きましょう」
「おそろいにしてよ」
「やあよ。また変な噂されるじゃない」
「なによう。いいじゃない。あたしはピンクで、此紀は青の石にしたらいいでしょ。デザインは同じで」
「同じ色の石よりもカップルっぽいじゃない! いやよ! しかもその配色、完全に私が男じゃない!」
「別にカップルでもいいじゃん!」
「よくないじゃん!」
 語尾が荒れてくる。
 女と噂を立てられることくらいはどうでもいいが、相手が問題だった。この女と並べられると、互いの短所が際立つ気がする。
 きい、と言いながら万羽が身体を起こし、枕を投げてきた。持ち前の反射神経で避けると、枕は此紀の頭の横を通り、背後の文机にぶつかった。幸い、読みかけの本が載っているだけだったが、机そのものが畳の上をスライドして、床の間に乗り上げた。
 陶器の花瓶が倒れ、がしゃんと大きな音が響く。
「あ! ごめん」
「いえ、花瓶は安物だからいいけど」
 床の間の壁の一枚向こうは、豪礼の部屋である。留守にしていることの多い男だが。
 悪いことに、在室していたらしい。隣室の襖が開く音がした。
 万羽に布団をかぶせて隠す。さすがに意図を察したらしく、万羽も大人しく布団だるまになった。
 ノックもせず、声も掛けず、大きな男が部屋の襖を開いた。
 まず裸体の此紀を見て、床の間を見て、また此紀を見る。
「どうした」
「どうもしません」
「普通こういう時は、布団で身体を隠すものだろう」
「うるせえ!」
 別のものを隠しているのだから仕方ない。
 豪礼はわずかに目を細めた。
「修羅場でないのならいい」
「何の話よ」
「お前が煙草を吸うせいで、匂いが際立つ。その女は幼子のような匂いがする」
 低い声でそう言って襖を閉め、さっさと自分の部屋へ戻って行った。
 もぞもぞと万羽が這い出してくる。
「此紀のこと心配して来たみたい。相変わらず仲いいわね」
「まあ、一番付き合いが長いから。勘も鼻も良くて嫌な男よ。孫は可愛いけどね」
「……一番付き合いが長いの」
「そりゃまあ。年が近いから。宣水も生まれ年は近いけど、もうずっと居ないし」
「あたしだってそんなに年は違わないもん」
「あら。焼きもち?」
「ていうか」
 少し眉をひそめて、万羽は珍しく、真剣そうな――弥風に似た表情を浮かべた。
「豪礼は嫌い」
「そうね。あんたたちは昔からあんまり合わないみたい。ま、そりゃ性格の良い男とは言えないけど」
「性格が良くても悪くても、あいつのことは嫌い」
「ふうん」
 この女が、シリアスに何者かを嫌悪するのは、本当に珍しい。天真爛漫であるから、というよりも、さほど他者に関心があるとは思えないからだ。
 だから少し興味があった。
「なぜ? あいつに何かされた?」
「自分だけは全部わかってて、ずっと同じところにいて、動かないっていう感じが嫌い」
 想像していなかった種類の理由だ。
 また此紀は、豪礼に対して、あまりそういった印象を持っていない。自由にふらふらと生きている男、とだけ感じている。
「自分だけは全部わかってる? そう? あいつ、そういうのどうでもよさそうじゃない。どっちかっていうと、神無とかのほうがそういうイメージあるけどね」
「ぜんぜん違うわよ。神無はただ、ああいう風に生まれただけでしょ。豪礼は自分で真ん中を選んで、自分だけが真ん中にいて、そこから動く気がないのよ」
「自己中心的という意味?」
「違う。ぜんぜん違う。それは神無でしょ。豪礼は逆なのよ。ええと」
 此紀に伝わらないことをもどかしく感じているらしく、言葉を探している。
「ええと――たとえば船」
「船?」
「あの、船長が持ってる、トゲトゲのハンドル」
「舵ね。船長というか、操舵手が操作するものだけど」
「ううん、船長よ。豪礼は船長で、ずっとそのハンドルを持ってるの。誰かに船を運転させるのが嫌なのよ」
「あんたに言うのは悪いんだけど、そういう比喩は、弥風のほうをよっぽど指し示すんじゃないの?」
「違うの。……ええと。弥風は船がどこに行くかわからないから、自分が船を動かしたいのよ。でも豪礼は、船がどこに行くか知ってるの。だから、そこに行かせるために、自分がハンドルを持ちたいのよ」
「んんん? ちょっと何言ってるかわからないんだけど、わからないなりに反論すると――どこに行くか知ってるなら、操舵する必要はないんじゃないの?」
「だから、弥風とかがハンドル持ったら、別のとこに行っちゃうかも知れないでしょ」
 普段、抽象的な話をする女ではない。ボキャブラリーも正確とは言えないため、より伝わりにくい。
 だが、真摯さは感じ取れる。おそらく万羽は、何か――誠実さに類する感情によって、豪礼のことを嫌っているようだった。
 最近、誰かが同じように、豪礼をピックアップして語っていた。此紀の記憶力は、すぐにそれを思い出す。
 神無の永遠論だ。それも、よく思い返せば、おそらく――万羽の言わんとすることときわめて近いベクトルで、あの男を評定していた。
 神無と万羽が同じことを言うのなら、それはきっと、そうなのだろう。
 この女たちに何が視えているのかはわからないが、この女たちの眼力は知っている。
 万羽は、弥風譲りの、聞き取りやすい澄んだ声で言った。
「豪礼は嫌い。あいつのせいで、みんなどこにも行けないから」
「神無は豪礼を、門番だと言ってたわ。あんたに言わせると船長?」
「門番? あいつ何も守ってないわよ」
「そう? あんたの言い方に合わせると、『目的地に行くこと』を守ってるんじゃないの? 他の場所に行くことを許さないんでしょ」
「ん。……んー。……ん~~」
 本を読む習慣を持たない女は、少し時間をかけて、此紀の言葉を噛み砕いたようだった。
「うん。そうかも。門番と船長はおんなじかも」
「私には、ただ好き勝手に生きてる男に見えるけどね。あんたたちから見ると、もっと悪いものなのね」
「悪いかどうかはわかんない。嫌いなだけ」
「驕れる神は許すあんたでも、豪礼のことは嫌いなのね」
「んー……」
 神や宗教について造詣を持つ者は少ない。特定の宗教を信奉することは、掟で禁じられていた。
 ゆえに万羽は、このことをうまく語れないのかも知れない。神無の方はおそらく、うまく語ったのだろう。此紀が理解できなかっただけだ。
 万羽は溜め息を吐いて、布団の中にもぞもぞと戻って行った。また布団だるまになる。
「ちょっと。私だって寒いんだから、布団返してよ」
「ねえ」
 布団越しに篭もった声が聞こえる。
「あたし子供みたいな匂いする?」
「子供っていうか、ミルク系の匂いはすることあるわね」
「そんなことないもん。大人の女だもん。ジョヴォヴィッチだもん。血と硝煙の危険な香りがするもん」
 無視して、エアコンのリモコンを探し、暖房のダッシュボタンを押した。ついでに浴衣を羽織る。
 床の間から枕を回収した。花瓶や机は桐生に任せることにする。仕事は明日に繰り越した。
 本棚から一冊取り出して、枕と一緒に布団の側まで持って行く。
 枕を座布団代わりにして座り、本を開いた。ゆっくりと読み上げる。
「――新しい教室の窓際からは、空のプールがよく見える。昨日まで降り続いた雨のせいで――」
 万羽が顔だけを布団から出した。
「なあに? 本?」
「そう。『本屋さんのダイアナ』」
「なんであたしがいるのに本読むの!」
「声に出して読書する習慣なんかないわよ。あんたに読んでやってるんでしょ。あんたが私に何かを伝えたいのなら、まず読書からなさい」
 もともと大きな瞳が、こぼれ落ちそうなほど丸くなる。
「読んでくれるの?」
「私は『ナイルパーチの女子会』のほうが好きだけど、あんたなら多分こっちの方が好きよ」
 万羽が嬉しそうに微笑む。
 この笑顔のためなら、揃いのデザインの指輪を嵌めてやってもいい、と一瞬だけ考える。一瞬だけ。
 それは後でまた考えることにして、此紀は小説の出だしを読み上げた。






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