ゆるおに 直訳にあらず

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直訳にあらず
「18 直訳にあらず」



 神無と豪礼の顔が似ている、ということに気付く者は少ない。
 片や小柄な女であり、片や大柄な男であるためだろう。
 また豪礼は、一族の者には珍しく髭をたくわえており、それも一因であるのかも知れない。神無の長い前髪もまた、顔をいくらか隠している。
 ――もちろん、肉親などは気付いているのだろうが。
 神無の青白い寝顔を見つめながら、白威はそんなことを考えている。
 時刻は朝の七時で、神無を起こしに来るにはまだ早い。
 しかし、事情があった。
「神無様」
 枕元に膝をつき、小さく声をかける。
 神無は静かに眠り続けている。無防備に。
 しかしどうやら神無は、自身の警戒心をスイッチングできるようだった。白威や兄弟子以外がこの部屋に忍び入れば、すぐに目を覚ます――だろう。
 賊が侵入した前例などは聞かないが。
 少なくとも、弥風がこの部屋の脇を通るとき、神無は必ず目を覚ます。
「神無様」
 もう一度、やや大きな声で呼びかけた。
 ぴく、と薄いまぶたが動いて、神無は目を開いた。
 大きな黒い瞳で白威を見上げる。
「……なんだ」
「朝から申し訳ありません。刹那様と蘭香さんのお話を耳に挟みましたもので、一応、お知らせに参りました」
 神無は目頭を押さえながら、ゆっくりと上半身を起こした。髪が少し乱れている。
 直そうと手を伸ばしたところで、振り払われた。
「構うな。話を」
「失礼いたしました。――このところ長老の夢見が悪く、ご機嫌がよろしくないそうです。もし続くようならば、神無様から、その」
「機嫌を取りに行けということか」
 それこそ不機嫌そうに、神無はそう言った。
 師は寝起きが悪く、朝はいつもこんなものだ。だから白威は黙って言葉を待つ。
「あの老爺の機嫌なぞ、静流に取らせておけば良かろうが」
「それが、神無様か――豪礼様をご指名とのことで」
「どうせ豪礼は居ないのだろう」
「その通りです」
 兄弟子の父は留守がちである。人里が好きなのか、この屋敷が嫌いなのか。
 師は鬱陶しげに溜め息を吐いた。
「豪礼に倣うか」
「お出かけになりますか」
「だが、そうすれば刹那がへそを曲げるな。面倒なことだ」
 神無は多くのことを聞き流すが、刹那と此紀の言うことだけは、いくらか聞き入れた。評価しているのだろう。よく働く羊のことは救う。
 まだ目が覚めきっていないのか、ぼんやりとした様子の師に、白威は小さな声で問うた。
「長老は――なぜ神無様と、豪礼様をご指名になったのでしょう」
 どちらも、機嫌取りに適しているようには見えない。
 次期長老にあたる弥風でさえも、現長老には意識を払っているが、神無や豪礼はあまり関心があるようではない。
 反逆するわけでもないが、気にかけてもいない。
 神無と豪礼は、ある意味においては弥風よりも、独自の目線で生きている。誰にもへつらうことなく、周囲に興味を示さない。
 宣水ほど突飛な行動に出るわけでもないが、一族の掟や慣習を軽んじている。それだけの力を有している、ということでもあった。
 弥風の価値観においては、おそらく右近や沙羅あたりも、同じような判断を下されているのだろう。
 だが白威の目には、それもまた違うように思える。
 神無と豪礼は――特別である。
 そして、この二者の特別性は、同種のものであるように思えた。
 なんとなく、としか言えないが。
 神無が無音であくびをした。
「あの老爺は弥風よりも勘が良い」
「勘、ですか」
「弥風は典雅や右近を警戒しているが、長老は分かっている。あいつらではない」
 論旨が見えないため、続く言葉を待った。
 寝惚けたような声で、神無は独り言のように呟いた。
「生き長らえているのは、意地もあろうな。弥風は目が悪い」
 年のためか、何らかの神秘性によるものか、師はときどき、意味のわからないことを語る。
 もう一度寝なおすのか、出かけるのか、それとも長老の部屋に行くつもりなのか。
 命令を待って、白威はただ座り続ける。
 神無の寝巻きは桃色の浴衣だ。以前までは白だったが、兄弟子が「左前の白装束はいくらなんでも縁起が悪い」と言い、明るい色のものを何枚か買ってきたのだ。百貨店の呉服売り場の女とでも付き合っていたのだろう。
 桃色の袖が持ち上がり、その中から白い腕が伸びて、白威の襟元を掴む。
 犬のように首を抑え込まれ、それでも白威は無言で師の命を待った。
 白威の目をじっと見つめて、神無は静かな声で言った。
「弥風はともかく、あの老爺は考えが大仰だ。自分が死ねば、世界が終わると思っているらしい。刹那や此紀も近いらしいな」
 長老や此紀の考えなどは知らないが、少なくとも刹那に関しては、確かにそうした危惧を抱いている節がある。
 なにしろ刹那は、ほぼ一人で、一族の運営を担当している。そのポジションに穴が開けば、実際、少なからず問題は起きるだろう。
「あの老爺。勘は弥風に勝るが、正しさにおいては劣る。言い換えるならば、勘で劣ってなお、正しさにおいては勝るこということだ。弥風は」
 師はこれで、次期長老のことも評価している。兄弟子と白威は、そのことを知っていた。
 白威の襟を掴む力は、それほど強くはない。
「刹那は雨で死に、此紀は自らの過ちで死ぬだろう」
 師を愛している。
 しかし、この、機械で合成されたような、暗く、遠くから響いてくるような――薄気味の悪い声だけは苦手だった。
「あの老爺は衰えて死ぬ。だが、それでも世界は終わりなぞしない」
 意味はわからなかった。まだ半分寝ているのかも知れない。あるいは、白威が愚かなのか。
 襟首を掴んでいた手が離れた。
「たまには顔を出すか」
 意外、というわけでもない言葉だった。白威の確率計算において、神無がこの選択を行う可能性は、三分の一であったためだ。
「かしこまりました。では、お着替えを用意しておきます」
「豪礼に」
 言いかけて、神無は珍しく、視線を泳がせるようにした。何か考えている。
 白威が黙っていると、師は静かな声で言った。
「気が向いたら、斎観に伝えろ。お前の父も、たまには一族を安心させてやるようにと」
「気が向いたら、ですか」
 それでは永遠に伝わることはあるまい。
 神無もそれはわかっているはずだ。つまり、さほど重要な案件ではないのだろう。確実に伝える必要のあることならば、白威など介さず、斎観、いや、豪礼に直接伝えるはずだ。留守がちとはいえ、捉まらないというわけではない。
 師の長いまつ毛が、ゆっくりと上下した。宙の何かを視ている。
「斎観をあまり邪険にしてやるな」
「……そのようなつもりはありませんが」
「あれは哀れな男だ。お前が思っているよりも」
 生い立ちが幸福な男ではない、ということは知っている。
 神無が少し笑う。
「あれは父親の模造品だ。あの血族も勘が良い。自分で知っているらしい」
「顔だけなら、よく見れば似てはいますが」
「顔なんぞはどうでもいい。合鍵だ」
 下ネタだろうか。
 別に低俗な意味ではなく、どちらかといえば深刻なニュアンスで、白威はそう思った。
 思い浮かべる錠前は、兄弟子の姉である。背格好こそ違うが、顔立ちは神無と少し似ている。
 しかし、そういう意味合いでもないようだった。師は淡々と言う。
「自分を大黒柱だと思っているわけでなくとも、代替品があり、なおかつ、自分の方が代替品であれば、嫌なものだろう」
「刹那様のお孫さんは、よく似た双子ですが」
 さほど考えたわけでもない、ふと思いついただけの切り返しだったが、師は驚いたように目を見開いた。
 じっと白威を見て、それから少し笑う。優しげな表情だった。
「なるほど。双子か」
「的外れな例えでしたか」
「いや。お前の方が賢いな。斎観よりも」
 誉めているわけではないのだろう。
「起きる」
「はい」
 布団から出る師に手を貸した。介護のようにも、王族に使える忠臣のようにも見えるだろう。
 立ち上がり、まだ眠気を残した仕草で、師は白威の肘を掴んだ。
「行くのは昼でよかろう。広間でテレビでも見る」
「映画でもご覧になりますか」
「なんでもいい。この部屋にいるとまた眠りそうだ」
「昼前にまた参りますので、それまでお休みになられてはいかがでしょうか」
「どうせ刹那に起こされる」
 確かにそうだろう。刹那はいつも、朝の九時から屋敷の巡回を開始する。それまでに目覚めない者は、朝寝坊の怠惰者である、と判断しているようだった。
 刹那がこの部屋を訪れることは、さほど多くもないが、今日は確実に来る。
 白威という斥候により、刹那の来訪前に、神無はその情報を得た。
 刹那からすれば、これも予言のように見えるのかも知れない。
「少し怠い」
 師はぽつりとそう言って、白威に身体をもたれかけてきた。
 一族において、見かけと体重が比例しない者は多いが、神無はさほどではない。白威が受け止められる程度の重みが、胸元にかかる。
 女を抱きとめているという気はしない。
 宝物を授かっている、というように感じる。いつも。
「夢見なぞ、俺とて良くはない」
 この屋敷の中で、女からこの一人称を聞くことは珍しいが、麓の村にはありふれている。この地方の年老いた女は、みな男と同じ話し方をする。
 ふと、弥風について、白威はぼんやり考える。あの威圧的な次期長老が、よりによって謙遜を示す一人称を選択したことについて、今まで不思議に思っていたが。
 ――近代性の表れか。
 そのアピールである、と解釈することもできる。
 おそらく、かつては神無や、麓の年寄りと同じ話し方をしたのだろう。
 今は違う。
「白威」
 はっきりとした発音で、叱るように師は白威を呼んだ。
「豪礼ほどでなくとも、女には勘がある。身体を寄せる男が、別のことを考えていれば、すぐにわかる」
「失礼いたしました」
「鍵は仕事を果たすらしい。錠前は不要だ。ならば」
 ゆっくりと身体を離して、師は白威を見上げた。
 大きな瞳。白と黒で構成された、細やかで美しい顔立ち。
「お前のことでも守るか」
「は……?」
「鍵は錠前を開くつもりはない。錠が余る。お前のことでも縛ろう」
 誰かと比較したことはないが、白威はおそらく、記憶力がそれなりに良い。意味の呑み込めない言葉でも、一度聞けば覚えている。
 短い時間の間に、言葉が変じていた。
 守る。縛る。
 それは同一のことなのだろうか。
 さらに、と考えを巡らせる。
 鍵のない錠前は、開いているならば、それは使うこともできるかも知れない。白威が想像しているものは南京錠だ。あれは一度閉じてから、鍵の出番となる。
 つまり、一度閉じられた錠前ならば、鍵がなければ開けない。
 錠前が何かにかけられているにしろ、余っているにしろ、一度閉じてしまったならば、もう使うことはできないということだ。
 お前の思考法は不思議だと、兄弟子に言われたことがある。
 誰よりも、白威は神無と話が噛み合うのだそうだ。
 ――実際のところは知らねえが。
 ――噛み合ってるように聞こえるな。
 正確には、そう言っていた。
 言わんとすることはわかる。白威は神無の言うことを、それほど理解しているわけではない。だがなぜか、相槌を打つと、それらしい会話になるのだ。
 兄弟子からすると、その会話も不思議なものに見えるらしいが。
 翻訳小説を読んでいるようだ、と言っていた。小難しい海外の文芸作品などは、訳者が単語や文化を勘違いして、奇妙な文章に訳してしまうことがある。その違和感に似ているのだそうだ。
 訳者の中でのみ筋が通っており、第三者から見れば不可解だ。
 そういうことを言いたかったのだろう。
「合鍵が」
 白威の口からは、あまり意識せずに言葉が漏れる。
「開けてしまうのではありませんか。錠で閉じても」
「開けさせはしない」
 会話が噛み合ってしまう。
 神無は白い指で、白威の胸を軽く押した。
「鍵は頑丈だ。兎は脆い」
 兎小屋は、多く、南京錠で閉じられるのだそうだ。
「鍵には言うなよ」
「はい」
「利口だ」
 かすかに、そう、幽かに、嘲るように目を細めて、師は言った。
「お前を守ろう。もうほかに守るものもない。この神無が、お前を選んでやろう」
「ありがとうございます」
 白威は素直に、そう答えた。





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