ゆるおに 無神論の女神

【メニュー】



無神論の女神
「20 無神論の女神」



 髪には魔力が宿るだの、霊気を溜めるだの、そんなことはもちろん俗説であり、物理法則には符号していない。
 だが、それを信じる者の意志により、本当にそうなることがある。
 思い込みの力という意味では、プラシーボ効果などに分類されるのだろうか。そして、それがまじないや、異能や、奇蹟と呼ばれるのだろうか。
 思い込みでは本来、世界を動かしえない。しかしヒトは思い込みによって、ただの胃潰瘍を、重篤な胃ガンに変異させてしまうことがある。
 なれば思い込みとは、現実を介した三段論法で、物理法則と言えるのではないか。
 ストレスとは、脳が感知・分泌する信号であり、それは明確に、物理に類するものである。

「デリケートな問題だわ。とても」
 一族が輩出した、歴代でただひとりの医師は、そう言って伊達眼鏡を外した。
「精神の病理と、器質疾患の線引きには、当然、ある程度の基準もあるし、確実性を判定できるケースもあるけれど。それでも診断は、医師によってまったく異なることも多いのよ。だから私はドラッグの類が嫌いなの。あれは器官をいじくることをスタートにして、いずれ精神まで破壊するから」
「説教か?」
「聞きゃしないでしょ」
 気だるげに言いながら、此紀は煙草を吸っている。
 矛盾しているとは思わない。この女はおそらく、禁煙すると決めれば、即日それを成すだろう。意志は器官に浸食されていない。
「趣味のうちは精神的な話で、中毒になると器官的な疾患か?」
「ま、素人にはそう説明するとわかりやすいかしらね。趣味で酒を飲む分には、そりゃあ好きにすればいいけれど。アルコール中毒になったら正常とは言えないし、それで自傷や他害に至ったら強制入院よ」
「克己のまじないは」
「巫女様の予言に比べれば、説明はつけやすいと思うわ。完全に解明されるのはまだ先にしろ」
「予言のほうは――」
「その話はしないで。あんたのせいで頭が痛くなる」
「俺のせいとは?」
 刹那の問いに答えず、此紀は本のページを捲った。
 会話と、喫煙と、読書を同時に行っている。マルチタスクの女だ。
 読んでいる本は洋書で、小説のようだった。刹那の知らない作家だ。
「甘蜜が翻訳の仕事をしているらしい」
「あら、そう。結構なことね」
「英語が読める者が多いようだが、誰が教えているんだ」
「独学じゃないの? 豪礼は独学よ。日本に輸入されない海外の映画を、英語の字幕で観てるから」
「『セルビアン・フィルム』とかか」
「あれは輸入されたわよ。北米版がカットした部分さえモザイク処理で残して」
「どうなっているんだ、倫理機構は」
「私たちなんかより、ずっと深い業を持つ人間は多いわ。業と欲、倫理と愛情。それを美しい映像で仕上げているんだから、良い映画だと思うけど。巫女様は嫌いでしょうね」
 神無は子供と動物が好きだ。フィクションであっても、弱者が虐待される描写には嫌悪を示す。冷たげな雰囲気に似合わぬ一面である。
 しかし、良心や倫理というものを母親の胎内に置き忘れ、それを滋養のために食って産まれたような豪礼でさえも、犬が死ぬ映画を観ると気が沈むらしい。刹那もまあ、猫が死ぬ映画を観ると、自身の飼い猫を思い出して嫌な気分になる。
 たかだか小動物、それも作り物であるのに、不思議なものだ。
 動物を愛らしいと思う気持ちは、母性本能の誤作動であると、以前に確か、目の前の女から聞いたことがある。母なき一族において、そう呼ぶべきものかどうかは微妙な問題だが。
 種の繁栄に必要なシステムが、他の種にも適用されてしまうということだろう。
 豪礼などは、映画の犬に作動させる容量があるのなら、自身の子に反映させるべきだろうに。
 誤作動の幅が大きいのか、あるいは、反映の方法がいびつなのかも知れない。刹那が見る限り、あれは別に、子供を愛していないというわけではない。
「お前は髪を切らないのか」
「あんたに言われたくないわよ」
「俺は立場上、慣習に背くことを良しとできないんだ。お前はそういうことを気にする方でもないだろう」
「万羽が嬉しそうに編むから」
「んまっ」
「気持ちの悪いリアクションしないでよ」
「あいつには甘いな、お前は」
「そりゃそうよ」
 本を読んでいるために、切れ長の目は伏せられている。普段は一重まぶたの奥に隠れているが、こうして見るとまつ毛が長い。
「父もなく、異端の師を選んだ、弱い私を、あの子だけが助けてくれたもの」
「初めて聞くエピソードだが」
「そう? そうかも知れないわね。真珠は触れると劣化するわ。大切なものは心の中に。見せびらかすと目減りするから」
「お前が医者を志したのは、万羽が病に弱いからか?」
「それは無関係。先生が決めたのよ。一族の脆弱性を埋めるには、まず医者だと判断したんでしょう。私は――」
 本のページを捲る、静かな音。
「一族を永らえさせるのは、弥風の豪腕か、でなければ万羽の勘だと思うけどね。私は無力よ。あの病の発症原因も、治療法も突き止められない」
「神無の父は、豪礼だと言った」
「あら」
 此紀は顔を上げた。鼻梁にかすかな眼鏡の跡が残っている。
「最近よく、こういう文脈であいつの名前を聞くわね。豪礼が何?」
「豪礼のことは大事にしろと。あの男は一族の寿命を司ると。……確かに若い頃から、あれは才気を見せていたが、それでも力量は神無に劣り、弥風や宣水と大差はなかった。どういう意味の言葉なのか、当時も今もわかりはしないが」
「宣水は先生をそう評したわ。……少し違うかしら。先生は正しいけれど、駆け足が過ぎると。たぶん、そんなニュアンスだったと思う」
「豪礼はお前の師と親しかったか」
「いえ、折り合いは悪かった気がするわね。宣水とはよく学問のことを話していたけれど」
「万羽が本当は第五子だということは知っているか?」
 グレーがかった瞳が、純粋な驚きを示した。
「知らないわ」
「そうか。それならいい」
 この話を知っているのは、もはや弥風と自分だけだろう。
 此紀が知らないのならば、万羽も知るまい。あれは此紀と違い、隠しごとのできない女だ。
「忘れてくれ。万羽にも言うな」
「そりゃ、事情があるんでしょうから、そうするけど。……肆花さま?」
「違う」
「綾鳥?」
「候補は五人しかいないのだから、最大四回の質問で特定できてしまうだろう。深追いしてくるな」
「あの弥風が養子を取ったということ?」
「養子という呼び方が正確かどうかわからんが、まあ」
 此紀はガラスの灰皿で煙草を揉み消した。この女の爪はいつも赤く塗られている。長い指の持ち主だが、手は美しいとは言えない。よほど強い薬品を扱うのだろう。男の手のように浅黒く荒れている。
 白く綺麗な手よりも、この女は一族の者たちの命を選んだ。
「俺に言わせれば、お前こそが一族にとってかけがえのない者だが」
「それはどうも。最近、よく持ち上げられるわ。私がまたここを出るのが怖い?」
「正直なところ、それは言える。お前が最初で最後の医者だろうから」
「あんたも薬学には通じているでしょう。分野によっては私よりも。あと誰だか、看護師の資格を持ってるのがいるって聞いたけど」
「だが医者には遠い。特に外科医は、村の診療所にさえ居ない」
「桐生は――私が今取ってる豪礼の孫は、かなり学問ができるけど、医療方面に進む気はないみたいね。今までのどの従者もそう。頭の出来に関係なく、医学に興味を示すやつが居ないのよ」
「就学を望む者はときどき居るが、医大は6年だろう。そのせいもあろうな」
「さらにインターンで2年よ」
 二百余年のうち、いくらかを人里で暮らした此紀は、そう言って嫌そうな顔をした。
「学閥はあるし、医局でのセクハラは日常茶飯事だし、看護師のババアには嫌味を言われるし、もう絶対に病院には勤めないわ」
「それはお前の勤め先にも問題があったのではないか?」
「私たちが気分よく働ける場所なんか、世界のどこにもないのよ。日陰の異物だもの。甘蜜が正解ね」
「弥風の会社は二部上場したが」
「上層部が優秀なんでしょ。菱山さんとか」
「誰だそれは」
「あんた株主総会に出てるのに知らないの? 専務よ。あの、眼鏡の。弥風が世界で7人だけ買ってる人間のうちのひとり」
「ああ……。専務の顔はわかったが、あとの6人は誰だ」
「副社長と、ギヨタンと、乃木希典と、立川談志と、羽生善治と、和田一浩」
「ギヨタンがわからん」
「発音によってはギロチンね。Joseph Ignace Guillotin。ギロチン装置を考案、というか提唱した政治家よ。人道主義者であり、医者でもあり、学者でもあったわ。装置を設計したのは別人だけど」
「詳しいな」
「そうマイナーでもない雑学でしょ。『セルビアン・フィルム』より、よっぽど知名度が高いわよ」
「ギロチン氏の来歴ではなく、弥風の嗜好についてだ」
「まずは知ることよ。御すにしろ、倒すにしろ」
「あれは魔術を信じない。現実主義者で、合理主義者だ。だから髪を短くしている。長い髪は手入れが面倒で、掴まれやすく、近接戦闘で不利になるだけだと」
「なあに。急に」
「教えてやろうと思っただけだ。まずは知ることなのだろう」
 ふうん、と言って、首を傾けた。
「それなら克己はともかく、神無が天敵ね」
「そうだ。だから弥風は、神無をことさら嫌っている。魔の力を持つ化け物だから」
「神無に言わせると、天文学――いえ、数学か社会学だそうだけど」
「何の話だ」
「私にもわからないわよ。あんたは魔の力を信じているの?」
「魔性という意味ではな。髪の短い俺よりも、長い俺の方が、耽美で非現実的だろう。これは俗物を寄せ付けない力となる。視覚情報が不可視の壁を築き、これはまあ、魔力と言えるのではないか? 化粧がまじないであるように」
 少し感心したように、此紀の表情が緩む。
「なるほどね。伊達に長く生きてるわけじゃないと」
「きっちり長く生きている」
「なぜあんたほど賢い男が、弥風の腰巾着に甘んじているの」
「戦士だけでは詰むだろう。弱くとも魔法使いは必要だ」
「その言い回し流行ってるの?」
 長身の此紀は手足が長い。その腕を伸ばして、刹那の髪に触れた。
「女の匂いのする髪だわ。女物のシャンプーを使ってるんでしょ」
「そりゃお前。俺がトニックシャンプーを使う方が似合わんだろう」
「まじない的には、男が女物の化粧品を使うのは、あんまり良くもないわよ。特にあんたは女顔だから、男の災いと、女の災いとを、両方背負い込むことになってしまうわ」
 それから此紀は小さな声で、何かを言った。いや、歌った。
 歌詞の意味はわからないが、アイルランド風の旋律だ。女にしては少し低く、喫煙によってかすれた此紀の声によく合っている。
「ケルトの呪いか?」
「魔除けよ。……よくわかるわね。これがケルトのまじないの歌だと」
「アイリッシュ系であることは節から、まじない系であることは流れから推測が可能だ。お前が博識であることも知っている」
「だけど、悪しき呪いだと思ったわけね」
「それは冗談だ。お前が心優しいということも知っている。どういう意味の歌詞だ?」
「私が少し改変してるわ。意訳すると……タラニスよ、この者を許されよ。これは御身の眷属となることを誓おう」
「勝手に誓わせるなよ」
「タラニスとは、ヒトの生贄を好んだ神よ。私たちの守護神としては丁度いいでしょ」
「邪神か?」
「雷神よ。失礼ね」
「神仏分離令以降、俺はどちらかというと神道系のまじないを取り入れているのだが」
「神罰は下りはしないわ。神罰が下ったと思い込む者がいるだけ」
 刹那の髪を梳いていた指が離れる。
「それで結局、あんたは何しに来たのよ」
「ああ、胃薬をもらいたい。できれば漢方ではなく、化学合成の」
「素人判断で薬を飲むのはお勧めできないけど、要は鎮痛剤ね。あとで従者に届けさせるわ」
 麻薬や鎮痛薬ならば、刹那が自分で調合することもできるが、それが知れると、此紀に叱られるのだった。一族の薬事法は、この女が司ることになっている。
 医学と薬学の女神様、というところだろう。
「名も知らぬケルトの神より、お前に敬意を」
「どういたしまして。毛先が少し荒れてるわ。万羽の使ってるトリートメントが良いわよ」
 そう素っ気なく言って、女神様は再び、外国の本を読み始めた。






EP集 トップへ戻る



スポンサーサイト