ゆるおに Dinner
FC2ブログ

【メニュー】



Dinner
「25 Dinner」 
 

←「24 Dessert」



 あの蝶が羨ましいと呟いた沙羅に、女医は子羊のローストにナイフを入れながら答えた。
「買えばいいじゃない」
 その淡々とした言い方に、沙羅はがっかりする。
「金がない」
「ウソよ」
 万羽はしないであろう、素早く厳しい切り返しだ。
「あんた、貯金あるじゃない。申告してるだけでも結構なもんだわ」
「なぜお前が知っているんだ」
「あんたたちの上納額は、私と刹那で決めてるんだもの。おおまかな資産くらいは把握してるわよ」
 切り分けた赤い肉を、此紀は優雅な仕草で口に運んだ。
「どうだ?」
「何が」
「美味いかと聞いている」
 きちんと肉を飲み込んでから、此紀は「美味しいわよ」と言った。
「鴨にしようかと思ったけど、羊で正解ね。さくっと歯が入って柔らかい。これより柔らかすぎても食べごたえがないから、ちょうど美味しいわ」
「そう、私もそう思った」
 此紀の皿にはまだ四分の一ほどの肉が残っているが、沙羅はもう食べ終えてしまった。骨についている肉もこそげたいところだが、フィンガーボウルがないということは、そこまではしてくれるなということだろう。
 このフランス料理店に来たのは二回目だが、前回、牡蠣を食べたときにはボウルが添えられた。その程度は沙羅も空気を読む。
 沙羅が急かしたと感じたのか、此紀は残りの肉をさっと食べ、ワインを飲んだ。ルビー色のワインは此紀が指定した銘柄で、そう高価ではないが、しっとりと落ち着いた香りがする。
「けっこう量があったわね。私たちはいいけど、普通の女には多いんじゃないかしら」
「そうか? フォアグラも食べたかった」
「あんたがいつも空腹感あるのは、栄養失調だからよ」
 皿を下げに来た美男子のギャルソンは、もちろん表情を変えなかったが、視線がほんの一瞬だけ沙羅に向いた。栄養失調には見えない、と思ったに違いない。
 美男子が去ってから、小声で抗議する。
「外でそういうことを言うな」
「家で言ったって聞かないじゃない。食欲を疑似的に満足させても、脳が混乱して、太りやすい体質になるわよ」
 此紀はワインの飲み方が堂に入っている。一本目の白をほぼひとりで空けて、魚を食べ終わるタイミングで赤を頼んだ。それもまもなく飲み終わりそうだ。
「ソムリエはお前に気があるな」
「そうね。このランクの店としては、ちょっと愛想が良すぎるわ。それはともかく」
 あの髪が薄くなり始めているソムリエは、此紀の好みではないらしい。話題に興味がないようだった。
「あんたまさか、私にブレスレットをねだってるんじゃないでしょうね」
「な、ま、まさか」
 驚いて、どもってしまった。
 冗談だったらしく、此紀は笑う。
「ハピヨンは、万羽には似合うけど、あんたにはどうかしらね。あのシリーズは可愛すぎない?」
「私が可愛くないということか」
「アルハンブラより、フリヴォルとかのほうがイメージだわ。あそこのハーフリングはとても可愛いじゃない? 指に二輪の花が咲いたようで素敵よ」
「ああ、そんなデザインのものがあったな」
 雑誌で見かけた、此紀が言った通りの花の指輪を思い浮かべて、うっとりとする。
 さほど宝飾品に興味のあるほうでもないが、愛らしいデザインの光るものなど、嫌う理由はどこにもない。
「セールスが上手いな。いいなあ、欲しくなってしまった」
「だから、買えばいいじゃないの」
 此紀の首には、小粒の真珠が数十と巻きついている。琥珀色の石で作った花が、その先端に揺れていた。あきらかに模造とわかる真珠と宝石だが、細工が凝っているために気品がある。首をほっそりと華奢に見せていた。
「その首飾りはお高いものだろう」
「これ? そうでもないわ。万羽と比べたら、10分の1ってところでしょう」
「ええっ、私もそれが欲しい」
「ハスケルのアンティークだから、同じものは買えないと思うわ」
 さすがに来歴のきちんとしたものを着けている。確かに此紀は、高価なものを無闇に好む印象もなく、また他の女と同じ首飾りなど巻きたくはなさそうだ。
 先程のギャルソンが、チーズのワゴンを引いてきた。此紀が迷いなく三種を指定する。沙羅も同じものを頼んだ。少し多いと思う程度の量が取り分けられるのは、前回と同じだ。
 青カビのチーズをパンに乗せながら、此紀が薄く笑った。
「私たち、とてもカップルっぽいわね」
「近頃は女二人でも普通だろう」
「女のカップルも普通なのよ。夜のフレンチレストランなんか特にね」
「そうだとしても別にいいだろう。私とお前なら釣り合っていないということもない、あ、これしょっぱいな」
 沙羅は塩辛いチーズが得意ではない。此紀は好むらしく、美味そうに食べてワインを飲んでいる。
「帰りはもちろん、あんたが運転してくれるんでしょ」
「お前は見るからに飲んでいるからな。近頃はそれなりの店でも、車で乗り付けると、運転手には酒を出してくれないことがある」
「それはそうすべきね。私はアルコールって、遅く効いて長く残るんだけど、あんたはどう?」
「わりと早く抜けるように感じる。色々なことがそうだな。万事は私の上を通り抜ける」
「寂しそうなものの言い方をするわね。あんたは色々なことを楽しんでいるように見えるけど」
「楽しいことは手ごたえがない。自分の手柄ではないことは、あまり印象に残らないな。ここの食事にしても、私の稼いだ金で支払えば、どんなに味が上がることかと思う」
「あんたが稼いだ金には違いないでしょう」
「そう言えるかも知れないが、やはり手ごたえがない。仕事を持ちたいな」
 他の者なら笑うだろうが、此紀は笑わなかった。
 グラスを置いて、穏やかに沙羅を見る。
「あんたに意外と根性があることは知ってるわ。でも、下働きという感じでもないわね」
「いや、下働きでも何でも。私にできることならば」
「あんたは茶も着付けもできるし、嫁に行くお嬢さんとしては問題ないけど、私はその方面の職業には疎いわ。茶道の先生なんかは就職の世話をしてくれないの?」
「私の習った師はもう亡くなっている。存命の頃も、縁談はあったが、求人の話はなかったな」
「アルバイトでもいいわけ?」
「私にできることならば」
「意気込みはいいんだけど、あんたがコンビニでレジを打てるかというと、難しい気がするわね。機械一般と愛想笑いが駄目でしょ。この国でそれは、ほとんどの仕事から弾かれるわ。あとは職人系かしら」
「職人」
 好きな人種である。だが、自分がそうなれると思ったことはない。
「内弟子を取るような職人なら、戸籍も学歴も誤魔化して入れそうじゃない? 最近はそのあたりも厳しいのかしら」
「思ったよりも印象でものを喋っているな」
「そりゃあ、ぜんぜん知らないもの。医者や学者って、他の世界に行ったことがないから、けっこう世間知らずなのよ。保証人が必要なときなんかは強いから、それは任せてちょうだい」
 此紀は目下の者に対して、利害を考えないところがあった。それは賢いこの女に、ときどき貧乏くじを引かせている。
 だから此紀は大事にされた。経済力があるから、奴に立つから、そういう理由ではない。
 弱き者に優しいためだと、沙羅はそう思う。
「そういう首飾りは自分で買うのか」
「これはそうよ。出先で見つけて、ちょっと気に入ったの。ファッションジュエリーだから嫌味でもないでしょ」
「お前には、手に職があり、美しさも色気もある。なんでもできるのだから、嫌味でもよさそうなものだ」
「なるほど、勤めたことのない女の考えね」
 馬鹿にしているという風ではなかった。感心しているように見える。
「私を誘ったのは、就職の相談のため? それなら、力になれなくて悪かったわね。割り勘でいいわよ」
「いや、勘定は私が持つが。その」
「ネットニュースに、見たような名前が出ていたけど。その話が本題?」
「ああ……」
 やはり、沙羅の男の逮捕を知っている。
 胃が重くなるような感覚があった。もう、このあとに甘いものを食べるような気はしない。
「私はデザートをキャンセルしよう」
「そう? じゃあ、私もそうするけど。金の話? 人脈の話?」
「両方――かな」
「相談に乗るのはやぶさかではないけど、保釈は厳しいでしょ」
「いや、それは諦めている。出所後に身柄を請けたい。その時のために、その」
 沙羅が言い終える前に、此紀の目が見開かれた。
「組から切られた、五十過ぎの元ヤクザの面倒を見てやるっていうこと? あんたが? なぜ?」
「私には優しくしてくれたから」
 此紀の肩が上下する。ため息を現わしていた。
「私もたいがい、男を見る目がないけど。あんたも相当だわ。その年でそういう目に遭う男っていうのは、そういう人生を送ってきたのよ。その男に同情するなら、捨て猫でも拾ったほうがまだいいと思うわ」
「わかっているつもりだが、割り切れない。縁を持ってしまった以上、何とかしてやりたい」
「ばかね」
 言葉に反して、優しい声だった。この女の色気はこうしたところにある。堅く涼しげな女だが、ときおり柔らかさを見せる。
 知性も理性も本物だが、それを他者のために曲げえる。沙羅の価値観において、それは女性性だ。
 表面上の物腰においては、万羽に女らしさを譲るだろうが、内面ならば此紀が勝る。
 だからこそ、沙羅は――万羽を頼ることと、此紀に請うことを使い分けた。
 此紀がもう一口、ワインを飲む。
「報われないわよ。そんな男を救ったって」
「報いというのは何なのだろうか。はぐらかしているわけではなく、私にはそれがわからない。それはきっと、何も成したことがないからだろう」
「私の定義する報いは」
 生真面目に、此紀は語った。
「地動説が、提唱者の存命中に証明されることだわ」
「それは報いというよりも、事実や――言葉を変えたとしても、正義の証明に類するのでは? 冤罪が晴れることと、報いとは、また違うように思うのだが」
「そう? 正しい者が評価されることが報いだと、私は思うわ。――弥風を見ていてそう思う」
「悪行を重ねた弥風が健在である以上、正しいことが履行されていない、報われていない、ということか?」
 此紀の眉が、不可思議な歪み方をした。
「逆よ。弥風は正しいし、報われている、という意味」
 今度はおそらく、沙羅のほうが不可思議な顔をしてしまったはずだ。
 此紀がかすかに苦笑いを浮かべる。
「勝てば官軍だけど、官軍だから勝つわけじゃないでしょう。官軍が負ける可能性を包括して、なお官軍が勝つことが報いだと私は思う」
「晴らされる冤罪こそが報いだということか? 冤罪が存在しなければ、報いもまたないと?」
「そう。言葉にすると、そういうことになるわね。私の世界観において、冤罪は必ず存在するものだから。それは晴らされなければいけない。医者の必要性に似るわね。病人がいなければ、医者は食べていけないけど、医者が病人を望むわけもない。これは矛盾とは言わないでしょ」
「話をマクロからミクロに戻して悪いのだが、つまり、お前の定義において、私が報われるとは、どういうことを指すのだろうか」
「五十まで極道者として生きた男が、きちんと更生すること」
 問うたことが恥ずかしくなるほど、真っ当な回答だった。
 その通りだ。沙羅は報いを望んだつもりもないが、確かにそうなれば、報われたと感じるだろう。
 正しくない者は報われるべきではない、つまり、男のことを助けるべきではないと――そう言うのかと思っていた。実際、此紀は少し前に、捨て猫を拾ったほうがいいと言っていた。
 それは此紀の底ではなく、妥協点だったのだろう。
 報われることと、報われる見込みのあることには、大きな差がある。
 難しい話でもないが、沙羅はすぐに気付くことができなかった。
 此紀は日頃から考えているのだろう。正しいこと、報われるべきこと、そして報われることを。
 少し目を伏せて、此紀は微笑んだ。
「どんな素性の者にも、更生の道は与えられなければいけない。それは正しいことだわ。お勤めと言うように、刑期を終えたら、もう犯罪者ではない。本質的な罪は清算されないとしても、社会的には。だから私刑は許されず――そうね。元ヤクザのおっさんでも、社会に戻るチャンスは与えられるべきね。それがあんたの役目かどうかはともかく」
「私が救わなければ、私刑を受けるであろう男だ」
「わかったわよ」
 ワイングラスの脚を指先でなぞりながら、社会主義者であろう女は言った。
「できる範囲で力になってあげる。あんたのそういうところは、美点とされるべきだと思うから」
「される――べき、か」
「報われなくてもいいと言うのなら、あんたは聖女だわ。無職で浮気するバンドマンを養う女と同じ、社会的弱者にとっての救いの手よ。別名、都合のいい女」
「私はわりと、それになることに抵抗がないのかも知れないな」
「奇遇だわ。残念だけど」
 此紀が真珠の美しい首飾りを外す。
 じゃらりと両手に載せて、差し出してきた。
「奇遇ついでに、あんたにあげるわ。あんたは私よりも、気に入ったアクセサリーを手に入れることが下手そうだもの」
 遠慮しようと思ったが、その首飾りは確かに自分に似合うだろうと思った。そして、あの女の愛らしさを思い出す。
 受け取った。
「ありがとう。とても――綺麗だ。うれしい」
「蝶のブレスレットじゃなくて悪いけど」
「いや。うれしい」
 甘い菓子を食べずとも、此紀は食事に満足したようだった。
 手のひらの上の、凝った飴細工のような首飾りを、沙羅は満たされたような、泣きたいような気分で見つめる。






EP集 トップへ戻る


スポンサーサイト