ゆるおに 茶所 遠野

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茶所 遠野
「05 茶処 遠野」


 銀のスプーンがゆっくりと、熱い紅茶をかき混ぜて、薄い陶器のティーカップの中で硬く小さな音を立てる。
 こんなに上品な音を聞くのは久しぶりだ、と思いながら、「美味いかどうかは判んないんすけど」と声を掛ける。
「うちは紅茶って飲まないんで、どっかからの貰い物のティーバッグで申し訳ないです。一応、賞味期限は切れてないんですけど」
「別に構わない。私も紅茶の味なんぞそう判らない」
「そうは見えませんけどね。英国貴族みたいな風格ありますよ」
 女は鼻で笑って、そっとカップを持ち上げると口をつけた。別に世辞ではなく、物静かな高貴さを感じさせる、薫るように上品な仕草だった。
 戸棚の奥でうっすらと埃をかぶっていたティーカップを、慌てて洗った甲斐があった。この家でいつも使っている、近所の百円ショップか何かで買ってきた重いマグカップは、この女のいかにも繊細げな指先には、あまりにも似つかわしくない。
 カップと茶葉は棚から引っ張り出したが、気の利いた茶菓子はどうしても見つからなかったため、添えているのはミカンだが。
「皮剥きましょうか、ミカン」
「要らん。なんだその不気味な気遣いは」
「いやあ、克己様の留守にあなたに失礼があったら怒られますんで」         「お前のほうが兄弟子だろう。そう恐縮することもないだろうが」
 お前、などと兄弟子を呼ばわっている時点で、立場の上下は明らかである。
 沙羅はミカンをテーブルの上でころころと転がしながら、ダイニング中を見渡すようにした。本当はリビングのソファに通すべきだったのだろうが、ソファにもローテーブルにも洗濯物が山と鎮座しているため、仕方なくダイニングテーブルで応接しているのだった。リビングは間続きのため、そのだらしない様相も丸見えである。
「散らかっておりまして、お恥ずかしい」
「男の家なんぞこんなものだろう。まさか洗濯前か?」
「いや、ちゃんと洗濯したやつですよ。畳んで仕舞うまでが長いんですよね。つうか、その山から着て脱いで洗って、また山に戻すみたいな感じになっちまって」
 沙羅はあまりピンと来ないような顔で、ふうん、などと言っている。
「ああ。あなたは洗濯とかなさらないんでしょう」
「しないな」
「男にやらせてるんですか?」
「いや、家に洗濯機がないからな。クリーニングに出す。面倒なら捨てる」
「そりゃ豪勢ですねえ。うちは育ち盛りの子供がいるんで、質素倹約が旨ですわ」
 そこで沙羅は初めて、ダイニングテーブルの脇に立ち尽くす東雲に「まあ掛けろ」と座を勧めた。
 どちらが客か判りはしない。
 では失礼して、と言いながら正面の椅子を引き、腰掛ける。
「東雲」
 この温度は低いが響きは柔らかい、妙に色っぽい声で名を呼ばれるのも久しぶりだった。
「少し老けたか?」
 そんなことを言う妹弟子は、いかにも妖しい不老長寿の、玄妙な美貌を維持している。変わらない。いや、以前よりも美しくなった気さえする。
 長く濃い睫毛に、黒目がちの濡れた瞳。少し男性的な鼻筋と、桃色の可憐な唇のアンバランスさが、かえって色気を醸し出している。
 襟元に細かい刺繍の施された、高価そうな光沢のある白いブラウスは、胸元がいかにも苦しげだった。体型も変わらないようである。甘ったるげな柔らかい肉を乗せた豊満なる身体。かつて触れたことがあるが、もう記憶も薄れている。
「どこを見ている」
「胸のあたりを重点的に。尻は座っておいでなので見えませんから」
「見せてやろうか?」
「おっ、ノリが良いですね。ぜひ拝見したいですが、あのう」
 本日は何の御用ですか――と、その一言を切り出すことができないまま、玄関で出迎え、廊下に上げ、ダイニングに通して、茶を出し、雑談を交わしているのだった。
 沙羅はもう一口紅茶を飲んで、少し考えるようにしてから、スプーンで砂糖を足した。
「甘党でしたっけ」
「茶が渋い」
「ああ、そりゃすみません。一応、時間は計って淹れたんですが」
「神無のところで出た茶は、何か知らないが甘くて美味かったな」
「え」
 久々に聞く名だった。
「神無様のところに――行ったんすか」
「先月な」
「おう」
 思ったよりも最近の話だった。
「ずっと交流があるんですか?」
「いや。何年ぶりかに連絡を取って、近くに来ているから寄ると、そういう話になっただけだ。顔なんぞ見たのは本当に久方ぶりだ」
「お元気でしたか」
「神無と斎観は元気そうだったが、あの眼鏡の、白威か。あれは顔色が悪かったな。人里暮らしは血を濁らせると言うが」
「斎観さんの子供っつうのは」
「ああ、元気な娘だったぞ。皇ギに似て、美しいが少し陰湿そうな顔の」
「なんか目に浮かぶなあ。幾つくらいなんでしたっけ」
「十四だそうだ」
「おおう、もうそんな年かあ。まあそうか。うちのお嬢も十七だもんなあ」
「その、この家の息女も留守なのか」
「学校ですよ。帰ってくるのは夕方ですね」
 沙羅は目を見開くと、学校――と言った。
「学校に通わせているのか」
「克己様の方針で。小学校から通わせてるんですが、まあ何とかやってますね」
「美人か?」
「すぐ容姿の話しますね。美人つうか、素朴で可愛い顔してますよ。見てってやってください」
「お師様のお帰りは?」
「たぶん八時前には帰るんじゃねえかなあ」
「お前はいつも家にいるのか」
「まちまちですよ。夜さえ居りゃ文句を言われることはないんで」
 下品な意味合いに解釈したのか、沙羅は少し嫌そうな顔をした。その解釈で当たっているが。
 小さく溜め息を吐いて沙羅が言った。
「そのあたりも、なんだ。変わらないのか」
「お元気ですねえ。さすがにお嬢が年頃になってからは少ぉし大人しくなったかな、と思いますが」
 沙羅は昔から、克己の淫蕩に苦い顔をする。今もそんな顔をしていた。
 ストイックな性質ではあろうが、それほど潔癖というわけでもないだろう。数える程度ではあるが、かつて東雲を誘ってきたこともある。なにか東雲にはよく判らない女心とやらが、沙羅に眉間の皺を刻ませているのだろうか。
 ミカンの皮を剥きながら、沙羅は「神無の家で小言を言われた」と呟いた。
「普通、手土産も持たずに来るか、と」
「神無様がそんな所帯じみたこと言いますか?」
「斎観に言われた」
「言いそうっすね」
 東雲は別に、手ぶらかつアポイントなしで来訪した妹弟子に思うところなどはない。それこそ、そんな所帯くさい処世術が、この浮世離れした女に備わっているとは思わない。
「遠慮せずに滞在しろ、と言われたから一ヶ月ほど泊まっていたら、いつまで居るんだ、と言われた」
「そんなに居たんすか。そりゃ長い。遠慮しなさ過ぎでしょう」
「斎観の息子と、典雅と、典雅の子供にも会ったぞ」
「下山組は神無様のところをポータルにしてるらしいですからねえ」
 沙羅が流し目で東雲を見た。
「この家はそのポータルに参加しないのか」
「主の仰せのままに、っすね。克己様が必要ないと思われるんなら、必要ないでしょう」
「お前も、誰とも会っていないのか」
「しばらく会ってないすね。一応まあ、なんかあったときのライフラインとして、神無様の住所と電話番号くらいは知ってますけど。斎観さんの携帯番号もアドレス帳には入ってますけど、多分もう替わってんだろうなあ。お子さん十四歳ってことは、もう十四年は会ってないわけだし」
「この家は――三人で完結しているのか」
「そうすね。多分これが克己様の望む小世界なんだと思います。少なくとも今は」
 沙羅は黙った。色々思うことがあるのだろう。
 別に――立場で言うのであれば、沙羅がこの家に暮らしていても、おかしいことはないのだ。実際、ひとりで人里に暮らす沙羅を気遣って、克己が同居を持ちかけたこともあったはずだ。
 ポータル、同居者、横の繋がり。そうしたものをもっとも必要としないのは、おそらく沙羅だ。一人でふらりと山を降り、誰とも癒着せず、どこで何をしているのかを話すこともなく暮らしている。
「あなたは、たまには山に戻ったりすることはあるんですか」
「ほとんど無いな。一度か二度、荷物を取りに行ったくらいだ」
「下山組とは会ったりするんすか」
「それもほとんど無い。だから久しぶりに会って、色々と驚いた」
「なんか面白いことありました?」
「典雅のところに男の子が産まれたのを初めて知った。目元のあたりが典雅にそっくりで、あれは美男子になるな」
「は? 典雅様に男の子? いつ?」
「今は三つだか四つだか――お前も知らなかったのか」
 知らなかった。克己は知っていたのだろうか。
「此紀のところも二人産まれたそうだな」
「えっ!? 桐生くん、もう子供こさえたの?」
「いや、両方とも此紀の子供だそうだが」
「え、あの年まで子供を作らなかった方が急に二人も? 幾つ?」
「典雅の子供よりは上だったと思うが、幾つだったかな」
「ベビーブームっすね。なんも知らなかった」
「人里に下りると子供が欲しくなるものかな」
「まあ、家族を構成すると、安心感があるつうのは判りますね。あなたの言葉で言うところの、完結感つうか。田舎の狭小共同体で育ちましたからね」
 神無がポータルとなっているのは、下山した同胞の最長老であるためだろう。神無自身に、共同体を成したいという思いがあるのかどうかは判らないが。
 他の同胞にはあるのだろう、と思う。実利――ライフラインの意味合いを除いても。
 同じ血の者と繋がっていたいという、本能に近い欲求は、東雲にも判らないものではない。
 沙羅にはおそらく、それは無い。昔からなんとなく判っていた。
 沙羅の意識は、あの狭い山だの、血だの、そうしたところには向かない。
「宣水様は――」
 思い出した。一族の歴史上、もっとも異端性が高いと言われていた、あの――あまりにも血を顧みない鬼。
 沙羅と少し似ていると、幾度か思ったことがある。
「あの方は神無様ポータルに参加してるんですか?」
「知らん。神無、というか斎観が気を回して、息子だの典雅だのと引き合わせてくれたが、和泉と宣水は来なかった。此紀も」
「桐生君は来て、此紀様は来なかったんすか。あそこの師弟は結婚したって風の噂で聞きましたけど、もう一緒に暮らしてないのかな?」
「いや。此紀とその、桐生か。それは一緒に暮らしているそうだが、此紀は神無の家に顔を出したことがないらしい。典雅もずっと会っていないと言っていた」
「はあ。ポータル不参加。なんとなく理由は判る気がしますが」
「だから神無も典雅も、此紀の子供を見たことはないそうだ。桐生の話では、暮らし向きは悪くないそうだが」
「和泉様もポータル不参加?」
「らしいな。人間の男と結婚して、夫婦で暮らしているとか」
「そういう情報は入るわけですか。和泉様はまあいいけど、時月はどうしてんのかなあ。あいつ見るからに身体弱かったから、人里暮らしがきついと思ったけど――元気にしてんのかなあ」
「誰だ?」
「和泉様の従者だった若い女ですよ。お嬢の出産で世話になった」
「知らんな。そういえば、右近はどうしているんだ。あれもポータル不参加だそうだが」
「さあ、どこでどうしてるんだか」
 一切――連絡を取っていなかった。連絡するような用事が何も無かったからだ。向こうから連絡を寄越したこともない。数年前に一度、克己に言われて電話だけは掛けてみようと思ったが、把握していた携帯電話の番号は解約されていた。
 年寄りとはいえ、身体だけは丈夫な父親であったから、どこかでなんとか暮らしているとは思う。
 判らないが。父の身に何かあったとしても、東雲がそれを知る術はない。そうした事態を避けるためのポータルなのであるが、沙羅の言によれば、父はそのライフラインに不参加なのだそうだ。
 だから東雲は今、少しだけ落ち着かなくなった。
 父に何かあれば、神無あたりから連絡があるはずだと――そうなんとなく思っていたからだ。だから、便りが無いのは何とやらで、まあ生きてはいるのだろうと思っていた。
 だが、神無とも線が切れているとなると、もう何も判らない。野垂れ死んでいる可能性もあった。
「生きてんのかなあ」
 呟く。沙羅が目を細めた。
「一人で完結するのも、家で完結するのも勝手だが、緊急時のために連絡くらいは取っておけ。私でも何年かに一度は誰かに連絡を入れる」
「何年かに一度、誰かにって、すげえぼんやりした頻度と程度っすけど、それも連絡を取ってるうちに入るんすかね」
「ふん」
 いつの間にかミカンを食い終わっている。皮をぐいっと押しやってきた。
「私の携帯電話が不通になったら死んだと判断すればいいだろう。替えるたびにお師様とお前には伝えるから」
「げ。それだと親父は死んでるんですけど」
「供養してやれ」
「しときます。まあそれはいいんすけど、今日は泊まって行かれますか? 一ヶ月滞在するつもりならご自分で克己様に話してくださいよ」
「一ヶ月居るとまた煙たがられるからな。二、三日泊めてくれ」
「そりゃ構いませんが、うちは神無様のところと違って、家事も適当だしもてなしも雑ですよ。あの洗濯物の山と、この茶の出し方で判ってると思いますけど」
「まあ、神無のところは居心地が良かったな。上げ膳据え膳で。手作りの菓子なんぞが茶請けに出たし、足を揉めと言えば従者が揉んだし」
「うちの茶請けはもらいもののミカンですんませんね。足は揉みますよ。なんなら別のとこも揉みますよ」
「変わらんな。見かけも中身も」
「そうそう変わりませんよ。あなたもでしょう」
 まあなと素っ気なく言って、沙羅は椅子から腰を上げた。
 ブラウスのボタンを外しはじめる。
「暑いですか?」
「どちらかというと寒いな」
 十月の昼下がり、部屋には冷房も暖房も入れていない。東雲には暑くも寒くもなかった。
 沙羅がボタンをすべて外し、ブラウスをはらりと床に落として、その生白く豊満な上半身をさらしたところで気付いた。
「あっ! 本気で誘ってんのか!」
「女に恥をかかせるな」
「えええ、いや、でも」
 予想外のことに戸惑う。
「なんすか。まさか、そのためにいらしたわけでもないでしょうに」
「お前とお師様は毎夜交わしているんだろう」
「だ、だから何なんすか。ちょ、いや、別にあれですけど、お嬢が。ぼちぼち学校から帰るんで、ここではあの」
「私はお前が憎らしい。昔からずっと」
 ぽつりとそう言って、沙羅は自分の白く丸い肩を抱いた。
「お前にはすべてがある。優しい父。肌を合わせるお師様。完結した――この小さな家」
 沙羅が何を言わんとしているか判らないため、小さい家で悪かったな、というどうでもいい感想だけを抱いた。
 美貌の麒麟児、とかつて故郷で持て囃された妹弟子は、宙を見ながら小さく呟いた。
「私は独りだ」
 それは、その通りだろう。先程、東雲も考えていたことだ。
 沙羅は独りだ。群れたいという欲求を持たないのだろう。
 東雲はそう思っていた。それこそ、昔からずっと。
 違うのだろうか。
 そうした考えが顔に出ていたのか、沙羅は笑った。
「いや、別に――私が独りなのは、それが性に合っているからだ。だからそれはどうでもいい」
「はあ。実は一人ぼっちで寂しいから抱いてっ、とか、そういう昼メロみたいな話なのかと思いましたが」
「違う。そうだとしてもお前を相手には選ばない」
「まあ斎観さんのほうが豪礼様には似てますね」
「そう似ていない。顔だけ同じでも駄目だ。目の色が違う。なんだか手つきも気色悪かったし」
「あ、やることはやったんだ」
「いや。途中でやめた。顔が似ている分、かえって嫌になった」
 先程も少し考えたことだが、沙羅は印象ほど身持ちが堅いわけではない。したいことをして、したくないことをしないという、それだけの話だ。そうした性質も変わらないらしい。
 気侭な妹弟子がブラジャーを外そうとする。
「ちょお、待ってくださいって。本当にここではまずいって」
「息女は夕方まで帰らないと言っただろう。まだ二時過ぎだぞ」
「早けりゃ三時に帰ることもあるんですよ。なんですか? 久しぶりに兄弟子の顔を見て催しちゃいました?」
「ただの暇潰しだ」
 そう言って沙羅は東雲を睨んだ。
「なんだ。結局どうなんだ」
「光栄ですけど、ここではまずいっす。本気なら外に出ましょう」
「ふん」
 床のブラウスを拾って羽織り、沙羅は目を細めた。
「この私に恥をかかせたな」
「と、突然そんなこと言われましても」
「お前は女が好きだろう」
「まあ、嫌いではないですが」
「私は好い女の部類だと思うが」
「はあ、どこから見てもそうっすね」
「お師様は――男も女もなく、なんでも好きだろう」
「好きというか、まあ。好きものですね」
「それなら」
 沙羅はまた椅子に腰掛けた。ブラウスの前は留めていないため、迫力級の谷間は露わなままだ。
「どうして私を相手にしないんだ。山に居た頃から」
「ええ? なんか昔もそんなこと言ってましたけど、別に判んないわけじゃないでしょう」
「判らん。色気が無いからか」
「いやいや。あなたはなんか、こう、手ぇ出しにくいんですよ。綺麗で強くて、相手にされない感じするから」
「皆そう言うな」
「じゃあ判ってるじゃないですか」
「誘っているのは私だろう。相手にされないから、というのは合わない」
「ああ、だからそりゃ、この家だと問題があるってだけの話で。外なら喜んで、つってるでしょうに」
「私が――そう、身も世もかなぐり捨ててふるいつきたくなるような好い女だったら、お前はそんなことを気にしないはずだ」
 それは、まあ否定もできない話だった。実際、この家の娘が帰るまでには余裕がある。時間割りとしては、やってやれないことはないのだった。
 沙羅にそれほど食指が動かない、というのは事実である。
 そして沙羅は、そのあたりを敏感に理解しているのだろう。
「私が此紀のような女なら、お前も我慢できずに飛びついてくるはずだ」
「うん? 此紀様が指標すか?」
「斎観が言っていた。あの女はたまらない、と。息子の嫁だと判っていてもズブズブになってしまった、と昼メロのようなことを」
「ズブズブになったのかよ。馬鹿だなあ相変わらず」
「私は男を馬鹿にさせられるほどの女ではない、ということだ」
「ん? 此紀様はポータル不参加なんじゃ?」
「個人的には会っているということだろう。おい、私より此紀の話か。お前もやっぱり」
「いやいや、そういうつもりじゃ」
 随分と――普通の女のようなことで怒っている。というよりも、普通の女にしても低俗なことで怒っている。
 この美しく、浮世離れした妹弟子には似合わない。
 美貌の妹弟子は目元を曇らせた。
「くだらんことを言っている、と思っているだろう」
「いやあ」
「私もそう思う。だがな。私にも寒い夜くらいある」
「それは要するに、一人ぼっちで寂しいから抱いてっ、というやつでは」
「違うと言っているだろう。さっきも言ったが、仮にそうだとして、お前なぞがそれを慰む役に立つか」
「寂しいってほどでもない、つう程度問題っすか? つまり、たまに男と寝たいような気になるけど、男にモテなくてムカつくわ、みたいな」
「嫌な男だなお前は」
 だが否定しない以上、合っているのだろう。
 だとすればやはり、あまりにも馬鹿馬鹿しい話である。この家の高校生の小娘よりも悩みの程度が低い。
「似合わないっすね、そういう悩み」
「悩みというほど真剣でもない」
「そりゃそうでしょうが。こんな天女みたいに綺麗な女が、そんなくだらんこと考えてたら、びっくりしますよ。つうか、あなたがモテないわけはないでしょう。男なんかいくらでも引っ掛かるでしょ」
「どうでもいい男を引っ掛けても意味はなかろう」
「ああ。使い勝手の良かった愛人と別れたとか?」
 嫌そうな顔をした。また当たったのだろう。
「あ、それで神無様のところに行ったわけですか? ポータルを利用して、手頃な男を使おうと」
「別にそれだけが理由でもない。皆がどうしているか、多少は気になっていたし」
 つまりそれは、やはり――
 寂しくなったということではないのか。
 まあ別に、どうでもいい話の範疇ではあるが。
「ああ、だから典雅様だの桐生君だの、男鬼とだけ会ったわけですか。此紀様がポータルに参加してないつっても、桐生君経由で会おうと思えば会えたわけでしょ」
「だから、それだけが理由でもないと言っているだろう。お前もさっき言ったが、此紀が一族の者を避ける事情は判る気がするだろうが。押しかけても悪いだろう」
「桐生君は昔、あなたに惚れてた気がしますが。どうでした、孫の味は」
「食っていない。あんな若造に興味はない」
「まだ可愛らしいんですか、あの子は」
「いや、背丈はかなり育っていたぞ。斎観と同じくらい」
「え、でけえ」
「なんだか性格も斎観に似てきたらしい。軟派になっていた。手を握りながら口説いてきたぞ」
「あらら。なんか良くない育ち方しましたねえ。そりゃあなたの嫌いなタイプっすね。でもモテてるじゃないっすか」
「だから、嫌いなタイプに口説かれても仕様がないだろう」
「桐生君よりは俺の方がタイプってことですかあ。満更でもねえなあ」
 馬鹿、と素っ気なく言って、沙羅は冷めた紅茶のカップに指を沿わせた。
「私の父は早くに死んで、兄弟もなかった。私は葛羅に育てられたようなものだ」
「どなたでしたっけ」
「甘蜜の父だ」
「わかんねえなあ」
「そうか。何十年も前に亡くなったからな。まあそれで――」
 私は独りになった、と呟いた。
「独りですか」
「当時、私はもうお師様の従者だったが、ずっと――お前も知っている通り。あの方は私には線を引いていた」
「まあ、そういう言い方もできますかね」
 東雲に言わせれば、克己は沙羅を特別に可愛がっていたのだ。そのことがまるきり判っていないわけもあるまいし、癪なので口には出さない。
 沙羅はそんな東雲を見て、なぜか少し傷付いたような顔をした。
「お前は昔から私を疎んじているな」
「え? いえ、そんなことはけして」
「取り繕う必要もないだろう。生意気で可愛げのない妹弟子なぞ、誰でも疎ましく思う」
「いやあ、そんなこたないっすよ」
 疎ましく思うほど接点も無かった、というのが実際のところである。美しく才気に満ち、師に可愛がられていた妹弟子は、ただただ東雲から遠かった。
 才気で言えば、東雲と沙羅はそう変わらない、と言う者もあったが。
 そんなことは大して関係なく、ただ遠かった。沙羅の目は、感性は、あの狭い山になど向いてはいなかったからだ。
 生きる世界の遠い女だった。その視線も、語る言葉も、東雲には慣れない、異国のもののように思えた。
 今もその印象は変わらない。
「斎観と白威はあまり仲が良くもないそうだ。だが一緒に暮らして長い」
「はあ。昔から馬は合わないみたいなことは言ってましたが、あそこは二人とも神無様の犬ですからね。なんとかやってるんでしょう」
「典雅は此紀のことを気に掛けていた。心配だが、会いに行っても迷惑だろうから、この先も会うことはないだろう、と言っていた」
「はあ」
「お前が私を気に掛けたことなんぞ無いだろう。仲が良くも悪くもない、会いたくもないが会いたくないわけでもない、居ても居なくてもどうでもいいような――居ると多少は疎ましい、お前にとってそういう妹弟子なんだろう」
 返答に困った。ほぼまったくその通りである以上、沙羅は正確に理解している。だからこそ、そんなことないっすよ、ずっと心配してましたよ、などと答えたところで、何の意味もないということだ。
 ただ事実を述べられた。気まずい。
 沙羅は苦虫を噛み潰すような顔で言った。
「私はお前を兄弟子だと思っているが」
 続きを待ったが、沙羅はそこで黙った。
 思っているが――に続く言葉を考える。
 よく判らなかったので、適当に返答した。
「俺が十年そこら早く生まれて、少し早く克己様に師事して、その程度のことで兄弟子ヅラするな、っていう話っすか?」
「お前が私にそんなツラをしたことはないだろう。違う。だいたい今、兄弟子だと思っている、と言っただろうが。なぜ真逆の解釈をするんだ」
「何が仰りたいのか判らないんすよ」
「だから。私はお前を、その」
 噛んでいた苦虫が少しだけ甘くなったような、恥じらうような顔で、もう一度言った。
「お前を兄弟子だと思っている」
「はあ」
「はあ、か」
 気が抜けたような、怒ったような声で責められる。その理由がまだ東雲には判らない。
「野暮天」
 吐き捨てるように罵って、沙羅はもう一度言った。
「兄弟子のように――兄のように。そう思っている」
「あ。はい」
 そこでようやく合点した。そういう意味合いで言っているのだ。
 了解してから驚いた。
「え、あなたが? 俺をそういう風に思ってるんですか? ほんとに?」
 寝耳に水だった。だから理解するまでに時間が掛かったのだ。
 沙羅は顔を背けるようにして低い声で言った。
「私にも……まあ。才気ある兄弟子を敬い、……多少慕う程度の殊勝さはある」
「殊勝だったことなんてありましたっけ?」
「こういう性質なんだ。態度に出ないだけだ」
「態度に出てなきゃ判りませんよ。俺は目が悪いから、性根なんて透かして視ることはできませんよ。え? あなたが俺を兄弟子として慕ってるんですか?」
「そう言っている」
 驚いた。兄弟子を兄弟子とも思わない、それこそ先ほど沙羅が東雲を言い表したように――居ても居なくてもどうでもいい、居ると少し鬱陶しい、その程度に認識されているのだとばかり思っていた。
 決して世辞や愛想を言う女ではない。手土産も持たずに家を突然訪問し、兄弟子の淹れた茶に文句をつけ、剥いたミカンの皮を押し付けてくる妹弟子だ。
 だから要するに、慕っている、という言は事実なのだろう。
 本当に驚いた。
「自分より生まれが早いとか、師事が早いとか、そんなことをあなたも気にするんですか」
「そればかりでもない。お前のことは、別に、兄弟子でなくても」
「え? 俺に惚れてるの?」
 違う、と沙羅はテーブルを叩いた。
「馬鹿かお前は」
「敬う兄弟子に、馬鹿かお前は、とか普通言いませんよ。だから判らないんすよ」
「馬鹿でなかったらもう少しは口優しく接する」
 沙羅はそう憎まれ口を叩いて、少し黙った。
 東雲はその美しい顔をただ眺める。綺麗な女だ。東雲は他者の性根を見抜く眼力など備えてはいない。外を見て判断するだけだ。
「神無の家にひと月も居る気は無かったんだが」
 沙羅がぽつりと言った。随分と話が巻き戻っている。
「あそこの従者は、だいたいどちらかが家に居ることになっているんだな。あの家が留守になることはあまり無いようだ。だから、私が出かけて戻ると、どちらかが玄関まで迎えに来て、ああお帰りなさいと、こう言うわけだ」
「はあ。シフト制なんだ。いいなあ。俺なんか一人で家事やって買い物してお嬢を迎えて、毎日バタバタしてますわ。だから洗濯物を仕舞うのなんか最後の最後に回しちゃうんですが」
「この家も、あの家も、家だな」
「はい?」
「家族が住んでいる」
「家族?」
 意外な語彙だ、と思った。
「所帯じみたボキャブラリーっすね」
 口に出てしまった。
 沙羅は意外にも怒らず、まあ私もそう思う、と言った。
「私に似合わない言葉だろう」
「そうっすねえ」
「だが、神無やお前にも似合わないと思う」
「俺もそう思いますが」
「此紀は従者と二人で暮らしているそうだが、此紀にも似合わない言葉だと思う」
「はあ」
「皆、似合わないのに家族を持っているだろう。でも」
 長い睫毛をゆっくりと上下させて瞬く。
「私にだけ無い。家族というものが」
「叙情的っすね」
「お前はさっきから、どうしてそう反射的に返事をするんだ。もう少し考えてから喋れ」
「考えても多分、口から出る言葉は同じっすよ。それなら即答のほうが無駄がないでしょう」
「お前に軽く切り返されると、私の言っていることまで軽くなるだろうが」
「そんなこたないっすよ。俺の軽さとあなたの重さは無関係でしょ」
「またそう軽く返す。もう少し厳かに臨め」
「深刻ぶらないのが家訓なんですよ。別に茶化してないですよ。それで? 家族が欲しいんですか? 家族って、一緒に暮らす相手のことすか? そういうの必要としないもんだと思ってましたが」
「別に必要もないし欲しいわけでもないが、お前たちにあって私に無いのはなぜか、と思っただけだ」
「え? 必要もないし欲しいわけじゃないからでしょ?」
 沙羅が虚を突かれたような顔をする。
「なんだと?」
「いや、何仰ってるかよく判んないんですけど。違うんですか?」
「の、望めば、私にも与えられるとでも言うのか」
「与えられるって言うか、獲得するもんだと思いますけど」
「お前、この私に説教するつもりか」
「え、全然。あ、そうか、あなた生まれたときから何でも持ってるもんだから、何かを獲得するっていう発想が無いんですか」
「お前」
 怒ったらしく腰を浮かせかけたが、すぐに座り直した。
 溜め息を吐いてから東雲を睨む。
「お前、昔よりもお師様に似てきたな」
「自分でも時々そう思います」
「お前の言う通り、少し叙情的になっただけだ。家族という、完結した世界を少し想像した。別に必要でもないし、本気で欲しいわけでもないが、なんとなく」
 東雲はそこで、ふと思い出した。先ほど時月のことを話したためでもある。
 ――天涯孤独の身の上だから。
 ――家族というものに憧れを。
 父が早くに没し、兄弟もいない沙羅は、東雲のことを多少は慕っているそうだ。
 ――似たような話か。
「あなたは宣水様ほどは独走してるわけじゃない、つうことですかね」
「宣水? ああ。あれは家族のなんのとは無縁だろうな」
 時月もそう言っていた。
「時月はどうしてんのかなあ、ほんとに」
「またその話か。目の前の妹弟子よりも和泉の従者か」
「いや、連鎖的に思い出しただけですよ」
 あの師弟は家族として暮らしているのかと、それこそ少し叙情的に考えただけだ。和泉が結婚して夫と暮らしているというのなら、時月はどうしているのだろうか。
「東雲」
 静かな声で沙羅は言った。
「少しこの家に居させてくれ。三日でいいから。私はお前たちに会いたかった」
 東雲は「もちろん」と答えて、美しい妹弟子のため、キッチンから新しいミカンを持ってくるために腰を上げた。







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