ゆるおに 鬼化粧 1
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鬼化粧 1
「06 鬼化粧 1」


 遥侯は確かに、若手の女の中では、美しい部類の鬼であろう。
 卵型の小さな顔は、なめらかな輪郭線を描いたまま首から肩に至る。それが自慢なのだろう。若い鬼にしては珍しく、首元を露出する髪型と服装を好んでいた。
 切れ長の目尻に、すっと流れる長いまつ毛。彫刻細工のように繊細に尖った鼻。唇は薄く冷たげで、これから賢しげな声でも発した日には、さぞや鼻につく女になるであろうに、見かけのシャープさとバランスを取るように、喋る言葉は雑で若い。年寄りや男に言わせれば、可愛げがある、などということになるのだろう。
 鏡台に映った自分の眉間の歪みに、蘭香ははっとして指を這わせた。揉みほぐしてから、改めて自分の顔かたちを見つめ返す。
 はっきりとした二重瞼の大きな瞳は、ことに写真に映ると、きつい印象が強調される。それでいて眉は吊り、鼻はつんと小作りで、口元もなんとなく意地悪そうに見えるものだから、どうにも拗ねているように見えるのだった。
 蘭香の祖父は、一族でも儚げな美貌を謳われる鬼で、いい年をして少年の姿で暮らしている。確かに、耽美小説に登場するような美少年ではある。
 その祖父に、蘭香はそこそこ似ているはずだった。だが、素地は近くとも、どうにも印象が違う。
 ――杉本よりはましだわ。
 従姉のことを考える。
 従兄の松本は、まあ美男子である。祖父にそれほど似ているとは思わないが、主張の強い目元や、もの言いたげな口元が、良い効果を上げていた。
 だが、美男子に瓜二つの妹というのは憐れなものである。あれはどこから見ても男だ。いくら美しくとも、女と判らねば意味はあるまい。祖父の従者なども、その手の女だが。
 自分のこうした底意地の悪さが顔に出てくるのだと、蘭香はうすうす気付いてはいる。
 視線を少し伏せてみる。そうすると、遥侯にも負けないまつ毛がよく映える。
 早くに亡くなった父の顔は覚えていない。写真も残ってはいなかった。祖父にはそれほど似ていなかったそうだ。
 ――間に入った女が悪かったのかしら?
 多くの鬼と同じように、蘭香にも母というものへの思い入れはない。人間の女などは借り腹である。
 だが、紛うことなく血は混じる。
 ――和泉様はお可哀想だわ。
 また意地悪く、嘲るようにそう思う。
 和泉の顔は美しい。外国の俳優のようだ。テレビ画面越しに見たならば、まあ素敵、美男子だわ、と賞賛したかもしれない。
 だが、一族の者としては駄目だ。血が濁ってしまった。ああなると、顔立ちの美しさがかえって悪く作用している。蔑視に嫉妬が混じるのだ。だから和泉は陰惨な虐待を受けている。
 蘭香は別に、和泉にわざわざ冷水を掛けにいくことはない。祖父と、なによりも師が、物好きにもあの金髪の鬼を庇うから、言葉を交わしもする。ただ視線は合わせない。
 ――典雅様。
 美しいと言うのならば、この山の誰よりも美しい男を想う。
 典雅は端正すぎる面立ちのために、黙っていれば冷たくも見える。だが、笑うと優しい。
 ――ギャップ。
 師と、姉弟子の共通項。もともとの美貌をさらに輝かしく見せる効果。
 自分にはそれが無いのだと、蘭香はときどき考える。生真面目そうで意地悪そうな、その顔の通りの内面。予想通りで、期待を越えない、そんな女。
 ――三日で飽きるタイプの美人とは、ひょっとしてこういうことかしら。
 そう自虐する。蘭香の中では自虐のつもりだ。
 小生意気な可愛らしい顔立ち、と子供の頃からよく言われてきた。自分でもそう思う。いくらか得意にこそ思えど、不満に感じたことなどなかった。
 ――師と姉弟子の隣に立った日までは。
 そこで蘭香は背筋を伸ばす。薄い障子の向こうから、足音が近付いてきたからだ。その主は気配でなんとなくわかる。
 実際、足音は蘭香の部屋の前で止まった。
「蘭香。起きてる?」
 どことなく金属質な声。こうして障子が姿を隠しているせいで、その声の冷たさが際立つ。
「起きておりますわよ。もう九時でしょう。あなたと違って、私は規則正しく休んで起きますの」
 憎まれ口を叩いてしまう。
 ふん、と姉弟子は鼻を鳴らした。
「入るよ」
 返事を待たず、障子が開いた。
 鏡台の前に座る蘭香を見て、遥侯は不愛想に首を傾げた。
「化粧中?」
「終わりましたわ。あなたと違って、厚く塗らなくとも良いものですから」
 この女に対しては、どんどん心にもない憎まれ口を叩いてしまう。
 ――心にもないからこそだ。
 姉弟子は見下すように目を細める。
「もっと塗った方がいいんじゃないの。顔も髪も服も野暮ったいのに、化粧も薄けりゃ、だらしないだけの女に見える」
「清楚なんですのよ!」
「清楚な女は自称しないっしょ」
「見たまんまの馬鹿ですのね。清楚は努力ですわよ。清く正しく見える装いや仕草は、無自覚では維持されませんわ」
「深窓の令嬢はもっとマシな顔と性格してるんじゃね」
「うるさい! 用件は何ですの!」
「午後から典雅様が買い物にいらっしゃるそうだけど、どっちが運転する? ご自分で運転しても構わないって仰ってるけど、そういうわけにもさ」
 優美でたおやかな師は車の運転が下手だ。放ってはおけない。
「今日は抜け駆けをしないんですのね。午後に用事でも?」
 こういう時は、蘭香も遥侯も、相手には黙って自分が供をするのが常である。
 美しい師と一緒に出かけたいからだ。目障りなきょうだい弟子を出し抜けるのなら、なお最高である。
 遥侯は「別に」と素っ気なく言った。
「お嬢さんが一緒だから」
「ああ――」
 蘭香を出し抜いたところで、二人きりにはなれないということだ。
「色舞様ですの?」
「そう。お洋服だのアクセサリーだの買うみたい。あんたの方がお嬢さんと趣味は近いんじゃないの」
「そうでも――ありませんわよ」
 蘭香のほうが合わせているだけだ。
 師の愛娘に似れば、それだけ師の寵愛が――向くかもしれないと願って。
「お嬢様の付き添いなら、長丁場になりますわね。典雅様は女物をお見立てになるのが好きでいらっしゃるから」
 師とともに出かけたいのは山々だが、それは少し憂鬱だった。おそらく遥侯も似たような考えであるから、蘭香と話しに来たのだろう。
 蘭香も遥侯も、師の娘に対しては複雑な印象を抱いている。
 師の娘、色舞は――自分たちよりも年上の女であるから、本来はこうした形容はおかしいのだろうが――利発な娘である。蘭香たちにも優しく、礼儀正しい。面差しはそれほど父に似ている気もしないが、ふと横を向いた時の表情などは、驚くほどそっくりだと思うこともある。
 狐顔の細面で、流行りではないが、さすがに小綺麗な顔をした娘である。年を取ると印象がきつくなってしまうからと、少女の姿で暮らしていた。その判断は正しいと蘭香も思う。
「色舞さんはさ、良いかたなんだろうけどさあ――」
 遥侯は含みを持たせて濁した。
 良いかたなのだろうが――
 付き合いにくい。
 そう言いたかったのだろう。
 娘の付き添いであっても、朝露のほうならまだ気は楽だった。幼子のようなものだから、ただ甘やかしていれば良い。もっともあの娘に、外出の許可が出ることは多くないのだが。
 その点、色舞はしっかりした女であるから、その目は厳しい。父親の従者にどうこう口を出すわけではないが、胸のうちでは色々なことを考えているはずだ。
 かの息女は、今は亡き女の鬼に師事していたとのことで、行儀作法をよく身につけている。空気も読めるし気も利いた。父親とはまた違う意味で如才ない。
 だからこそ、生真面目すぎるために不器用な蘭香や、大雑把で不愛想な遥侯などは、監視されているように感じることがある。
 ――小姑。
 そんなものに近いのだろう。
 まさしくそう呼ぶべき姉弟子が典雅には居るが、そちらよりも色舞は難しい。
 遥侯が短く息を吐いた。
「あたしが行く。あんた顔に出過ぎ」
「出過ぎって、何がですの」
「お嬢さんと行きたくないんでしょ。そこまで嫌うこともないと思うけどね」
「わたくし、嫌ってなんて」
「椅子取りゲームじゃないんだから、お嬢さんの席が空いたとしたってあたしたちは座れないよ」
「え? ああ……」
 遥侯の言わんとすることを察した。
 蘭香が考えていたこととは少し違うのだが。
「あなたは色舞様に嫉妬していますの?」
「だから、そんな無駄なことしないって」
「そうかしら」
「あたしのものにならない椅子が目の前にチラついてたら、そりゃ気になることはあるよ。でも、お嬢さんにだって座れない椅子はあるからね。お嬢さんにだけ座れない椅子」
「まあ――わかりますわ」
「どっちがいいかとか、そんなもんは選べないでしょ」
 ――見た目よりも馬鹿ではない。
 ときどき、そう思う。間違っても口に出すことはないが。
 品性に欠ける分、よくものを見ている。蘭香にはない、獣のような鋭さと冷淡さを持つ女だった。
「あたしは自分のものにならない男に惚れない」
「惚れているのでしょ」
「憧れてるだけ。あんたみたいに馬鹿じゃない」
「保険をかける女が一番ダサいと思いますけれど」
「ブス」
「勝手に私の部屋の鏡をご覧にならないで」
「デブ」
「浮きすぎた鎖骨は見苦しくってよ。他にご自慢が無いからこれ見よがしにしているんでしょうけれど」
「七光り」
「照らしてくれるバックボーンも無い方は憐れですわね」
「ふん」
 軽く障子を蹴って、閉めもせずに遥侯は背中を向けた。長い脚ですたすたと廊下を歩き去る。
「ふん」
 同じように蘭香も鼻を鳴らした。
 蘭香の部屋は細い廊下だけを挟んで、屋敷の裏庭に面している。だから開け放たれた障子から、苔むした庭石だの、あまり手入れされていない小さな池だのが見えた。その背後は高い塀で囲われている。
 夜は雨戸を閉めているが、朝には開ける。このあたりの開け閉めは蘭香の担当だった。だから朝は早く、決まった時間に起きる。
 いびつに増改築を繰り返している広い屋敷は、蘭香が足を踏み入れたことのない場所もある。母屋の奥側などは、長老の居室や弥風の部屋などが集まっていて、無断で立ち入れば叱られた。そのあたりには祖父の部屋もあるが、だから用が無ければほとんど出向くことはない。
 この屋敷に幾つの部屋があるかは知らないが、広さのわりには窮屈だと感じる。それもそのはずで、一族郎党数十名の全員が暮らしているのだ。個室を持てる者は恵まれている。
 ――全員でもない。
 祖父が言いそうな台詞を思いつき、蘭香は小さく笑う。
 そう、全員ではなかった。一族にも、ここに住んでいない者はいる。
 ――宣水様。豪礼様。
 二人の姿をしばらく見ていない。宣水に至っては、最後に会ったのは蘭香が子供の時分だった気さえする。
 この屋敷は窮屈だと感じる蘭香でも、ここの他で暮らそうと考えたことなどはない。
 朝起きて、雨戸を開け、部屋の換気をし、身支度をして、師の世話をする。
 週に一度、二度、山を下りて食事をする。そのついでに街を歩く。
 そして山に戻って、雨戸を閉める。師に挨拶をしてから、入浴して休む。
 その繰り返しで、蘭香はこの年まで暮らしてきた。他の生き方など知りはしないし、考える理由もない。
 ぼんやりと裏庭を眺めていると、また足音が近付いてきた。遥侯が戻ってきたのかと思ったが違う。もっとしっかりとした、年長者の歩き方だった。蘭香にはそうしたことがなんとなくわかる。
 だが、ひょいと覗いてきた顔は予想外で、蘭香は少しびくっとしてしまった。
 愛らしい――と言えなくもない少年の顔がわずかに曇る。
「なんだだらしない。障子なんか開け放って」
「も、申し訳ありません」
 姉弟子相手には腰を上げもしなかったが、慌てて立ち上がり、頭を下げる。
 弥風は「良い良い」と言って手をひらひらと振った。
「別に君は畏まらなくて良い。若い娘のくせに、ただでさえ畏まってるんだから」
「そのような……その」
 緊張して、しどろもどろになってしまう。
 この少年姿の鬼は、一族の頂点に立つ権力者だ。いや、正確には、次に頂点に立つ者なのだが、現在でもそれに比肩する力を有している。
 そして、その力を凶暴に振るった。この鬼を恐れぬ者はない。
 幼子にも厳しく接するこの暴君は、それでも蘭香にはそれなりに優しい――ように思う。祖父が懇意であるためだろう。遥侯が言うところの七光りの恩恵である。
 だが、要するにそれだけだ。蘭香自身が気に入られているわけではない。
 だから蘭香は、他の者と同じく、いや、それ以上に弥風のことを恐れている。
 優しくされている分だけ、手のひらを返されたときが怖いのだ。
 弥風は障子の前に立ったまま、ふうん――と言いながら部屋の中を眺めた。蘭香は恥じ入る。身内や姉弟子のほかに見られることは想定していない私室だ。
 蘭香が向かっていた和式の鏡台。腰掛けていた座布団。書き物をするための机。本棚の下半分には本を詰めているが、上半分には香水瓶だのアクセサリーだのをごちゃごちゃと陳列していた。押し入れの中は――見えまいが、寝具や服がぎっしりと詰まっている。
「綺麗に使ってるな」
 弥風はそう評した。
「お、恐れ入ります。そうでしょうか」
「掃除がまめなのは良いことだ。住まわせてやってるんだから、この家屋敷は綺麗に使え」
「はい、それは重々」
「ところで、そこでお前のとこの女とすれ違ったが」
「あ――不調法がございましたでしょう。妹弟子のわたくしからもお詫び申し上げます」
「良い。あれが馬鹿なのはわかってる。親父がどうしようもなかったからな」
 遥侯の亡父が愚かな鬼であったということは、姉弟子自身の口からもときおり出る。だが、蘭香はその仔細を知らない。あまり聞きたいとも思わなかったからだ。
「あの娘、名前は何て言ったっけ」
「遥侯です。遥かなる諸侯」
「豪礼のとこのガキどもみたいな名前だな。馬鹿っぽいが、顔はちょっと作りが良い。もう少しちゃんとした服を着てりゃいいのに」
「申し伝えておきます」
「君も真面目な娘だな」
 呆れたように言って蘭香を見る。背丈は同じくらいだろうが、見下ろされている気がした。
「うちの末娘がそのくらいの年だった頃は、花摘んで飴舐めてご機嫌だったけど」
「私は……こう見えましても、もう三十に届きますが」
「知ってるよ」
「さ、左様ですか」
「典雅には早めに見切りをつけろよ。ろくな男じゃないだろ」
 黙ってやり過ごす。弥風は聴こえよがしに溜め息を吐いた。
「男を見る目はうちの馬鹿娘のほうがマシだな。典雅なんか顔だけだろ。顔だけ」
「大事なことです。顔かたち以外にも大事なことはございますが、顔かたちも――大きな要素です」
 弥風に口答えを許される身分ではない。そんなことは承知しているが、言わずにはいられなかった。
 ふうん、と弥風は皮肉げにも感心するようにも聞こえる声で言った。
「あの手の男に惚れたって報われないだろ」
「承知しております」
「態度が優しいだけのエゴイストだ。あいつが可愛いのは自分のガキどもだけで、君たちに分ける愛情なんか持ってないよ」
「承知しております。私も、姉弟子も」
「顔が良いのは七難隠すか?」
「七難もございません。典雅様はお優しいですし、その愛情をいただけないからと恨むのは筋違いに思います。お美しくて、お優しくて、よく面倒を見てくださいます。それで充分です」
「まあね、そういう見方もあるんだろうが」
 ――意外に話が通じる。
 弥風とときおり言葉を交わすたびに思うことだ。言われているほど、問答無用の暴君という印象は受けない。
 祖父の七光りのために目こぼしを受けている、というだけかも知れないが。
「刹那から聞いてるかもしれないが、年寄りの間ではね、徒弟制度の廃止について話すことがある。けっこう定期的に」
「え――初耳です」
「そうか。僕は廃止もいいと思うんだけどね。ろくでもない師につくと悲惨だし」
 と言って、何か嫌なことでも思い出すような顔をした。
 続ける。
「ただそうすると、ろくでもない親父のもとに生まれたらどうするんだと。反対派はそう言うわけだ。それはもっともだと思う」
 弥風のこうした物の喋り方も、知らない者は知らないのだろう。
 自分と違える意見について、その正当性を認めるだけの理知性を有している。
 暴君であるのは事実だが、暗君ではない。蘭香にはそう見える。
「父が教えられないものを師が教える。それ自体は優れたシステムだと思う。だから何百年も続いてるんだろう。まあ、それは教育機関を設けるべきだとも思うんだが、まだ現実性に欠く」
「そう――ですね」
「師とは教育者であるべきで、典雅みたいな何も教えない男に、若い女が殺到する現状っていうのは間違ってる。君ならそのくらいはわかるだろ」
「仰っていることは理解できます」
「ま、教育者というよりも庇護者っていうのが実情だけどね。それにしたって教われるものはあった方がいいだろ。師が死んだときには他の鬼の世話にならなきゃいけないんだから、そのとき使える礼儀作法だの」
 教育者。庇護者。
 弥風が考えている、師というものの理想像、あるいは現状の認識は正しいのだろう。
 だが、補い切れていない部分がある。
 さすがに躊躇う。そこまで踏み込むことを弥風が許す保証はない。
 だが、口は動いた。
「――万羽様は、たとえば、東埜さんを私物化していらっしゃいます。それはもちろん、師の権利です」
「ん? ああ。あいつも従者に何も教えない、庇護型だね。それは僕も憂えてるが」
「庇護は強さの結果であって、目的は私物化です。愛人型、と呼べるかと思います」
 弥風の眉がわずかに動いた。ほんのかすかな不快の表明。心臓が縮む。
 だが、その感情は蘭香に向けられたものではないようだった。
「そういう側面もあるね。昔はそんな甘っちょろいことは無かったが、最近は増えてる」
「愛人型をもっと進めるのなら――夫婦型、家族型と、そういう呼び方もできるのではないかと思います」
 空気がちりちりと全身の産毛を炙っている気がした。
 弥風の地雷原に踏み込んでいるという自覚があるからだ。
「君――」
「も、申し訳ございません」
「ん? いや、そんなに怯えなくていいよ。君のじいさんも似たようなことを言ってる。似てるなと思っただけだよ」
「祖父もそのようなことを?」
「ああ。あいつも一人の従者を長く使うタイプだからね。そもそも師の対義語は弟子であって、従者と呼称している以上、それは必ずしも教育対象ではないとか、そういうことも言う」
「お――思います。愛人型は、正確にはふたつに派生するとも」
「派生?」
「はい。先に申し上げた、家族型と、雇用型です」
「婚姻と契約か」
「そ、その通りです」
「契約で買ってるだけの相手に何かを教えよう、あるいは教わろうなんて、思いやしないと」
「その通りです。弥風様にはご不快でしょうが、私などは――それで満足しております」
 意外にも弥風は怒らず、まあね、と言った。
「君ほど弁が立つのが居ないっていうだけで、実際そう思ってる連中は多いんだろうな」
「はい。申し訳ありません」
「別に君が謝ることじゃない。君くらい勝手に賢くなりゃあ、それはそれでいいんだよ。馬鹿をどう教育するかっていう話なわけだから」
 弥風は山の鬼たちの教育水準の低さを嘆いている。それは周知のことである。
 だが、仕方のないことだと蘭香は思う。
 教育を受けたとしても、意味がないのだ。要するに、親なり師なりが擁護を約束してくれさえすれば、それですべて済んでしまうわけである。自身が強く生まれたならば、それすらも必要ない。
 教育は報われない。
 だから重視されないのである。
 長老の許可を受け、人里の学校に通う者もときどきは居るそうだが、その意図は蘭香には知れない。趣味なのだろうと思っている。
 蘭香は祖父から少々の学問を教わり、それが肌に合ったから独学で続けた。だが、その程度だ。もっと勉学を身につけるため此紀に師事しろと命じられても、断固拒否する。
「私は典雅様に婚姻もしていただけない身ですが、愛人としておそばに置いていただけるだけで幸せです。学ぶこともなく、報われることもないでしょうけれど、それで良いのです」
 弥風は嫌そうな顔をしたが、まあそうなんだろうな、と存外あっさりと言った。
「人間の若い女と変わらないようなことを言うね」
「自分でもそう思います。女など誰でも一緒なのかも知れません」
「そういうのが女生まれの地位を下げるんだよ。君に言ってもしょうがないけど」
 弥風はさらに何か言おうとしたようだったが、「おっと」と自分で止めた。
「君に説教するために来たわけじゃない。彩目のガキの部屋はもっと奥だな?」
「彩目さんの――ということは、虹都さんでしょうか。少し先です。そこの角を曲がって、四つ目のお部屋だったはずです」
「遠いな。なんで僕が歩かなきゃいけないんだ」
 と言いながら弥風は障子を閉めて、さっさと歩き去った。
 肩から力が抜ける。
 疲れた。自分の内面をこれほど言語化することは、普段そう無い。披露する相手がいないからだ。問われることもない。
 あの鬼は、暴君と呼ばれる次期長老は、日々こんなことを考えて暮らしているのだろうか。
 ――だとしたら。
 再び鏡台の前に腰を下ろして、蘭香は鏡を見る。
 ――こんな悩みとは無縁なのでしょうね。
 手のひらを頬にあてる。その感触の柔らかさに満足する。鏡の中の大きな瞳。
 蘭香が日がな考えるのは、いかにして師の歓心を買うか、その方法だ。気遣い、ユーモア、楽器の演奏、そして美しさ。
 娘に勝てないことはわかっているが、少なくとも姉弟子には負けたくないと、そう考えている時間が特に長い。
 本当は――姉弟子のほうが自分より美しいことも、それでいてなお、典雅から特別な寵愛を受けてはいないことも、わかっているのだが。
 鏡台の引き出しから、淡い桃色の口紅を取り出す。蘭香の趣味には合わない。愛人か誰かにもらった品だ。しかし。
 ――典雅様はお好きかもしれないわ。
 色舞は化粧が上手い。薄化粧だが、似合う色を巧みに使う。
 遥侯はそれほど化粧が上手いとは思わないが、あれは素顔でも通用するからだ。
 少し考えてから、蘭香は口紅の蓋を開け、趣味に合わないその色を唇に乗せた。








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