ゆるおに 鬼化粧 4

【メニュー】



鬼化粧 4
「09 鬼化粧 4」


 父が和泉に買ってくる海外土産は、ほとんどが化粧品である。
 最初はアクセサリー類だったのだが、和泉の夫が貴金属の収集家であり、家には山ほどあるということを話して以降、「じゃあ新しいのは別に要らんか」と例によって軽快に言い、買って来なくなったのだ。
 だから今回手渡された、見慣れた黒い小箱にも、きっと化粧品が入っているのだろう。
「日本には入ってねえ色らしいぞ。目立つように置いてあったから、たぶん新色なんだろ」
 コーヒーを啜りながら、さほど興味があるようでもなさそうに言った。
 声に張りのある男だから、ホテルのティールームでは視線を集める。そして見目が良いため、その視線が離れない。
 和泉とはまた違う意味で目立つ、この父と衆人観衆に居ることが、和泉には居たたまれない。
 だが、父が滞在している、上の階の部屋に行くよりはましだった。この男と密室で二人になると、和泉はほとんど口がきけなくなる。
 だから和泉は周囲を気にしないように努めて、その場で小箱をそっと開いた。
 紙を細かく切った緩衝材の上に、長方形の小瓶がふたつ並べられている。
「マニキュアですか」
 淡い桜色と、明るい青に少し緑が入ったような色味のもの。フランス風に、ペールピンクとペールブルーとでも呼ぶべきだろうか。
 前者はともかく、後者は使うだろうか、と和泉は考える。寒色系のマニキュアはあまり塗らない。瞳の色に合わせている、と思われることが嫌だからだ。宝石類も青や緑のものは避けている。
 父の鳶色の瞳が和泉を見る。
「白だのオレンジだのはよく塗ってるから、意外にそのへんは持ってないかと思ってな」
「ありがとうございます」
 父はあまり女の化粧品に興味があるようでもないが、よく見てはいる。パリの女たちと付き合っているから、目が肥えているのだろう。
「青い方は足の爪に塗るといいんじゃねえか? あとで塗ってやろうか」
「……大きい声でそういうことを言わないでください」
「お前のような美しい女を連れてたら、でかい声で自慢したくもなるさ」
 外国映画のような台詞を、外国人俳優のような手振りを交えて言う。父のこうした言動に慣れることは、きっとこの先も無いだろうと考える。
 この華やかで艶やかな男が、和泉のような卑屈な女と血が繋がっているということが信じられない。
「今回はいつまで日本に居るんですか」
「明後日の夜の飛行機に乗る」
「……すぐに行ってしまうんですね」
「お前に会うためだけに来たからな
 それはおそらく本当であろうから、和泉は気恥ずかしくなって俯いてしまう。小瓶にそっと指を這わせる。今はパールホワイトのマニキュアを塗っていた。
「……よく見ていますね。僕の爪の色なんか」
「見るさ。俺の美姫がどんな装いをしているのか。お前は何を着ても、何を塗っても綺麗だが、明るい色がひときわ映える。俺の黄金。俺のサファイア。お前が敵国の姫なら、俺はこの身を焼いてでも城を落としてみせる。あるいは自分の国をも差し出そう。傾国のファム・ファタール。世界中に見せびらかしたいが、同時に誰の目にも触れさせたくない。世界で一番美しい、俺の宝」
 映画か何かの台詞を流用しているのか、まさか自分で考えているのか、和泉はいつも戸惑う。顔が熱くなる自分が情けなく、涙が出そうになる。
「……やめてください」
「愛している。俺の和泉」
「…………」
 さらに俯いて、流れる前髪で顔を隠す。
 時間をかけて化粧を施してきたが、汗で崩れてはいないだろうか。チークとリップの色は合っていただろうか。日本の流行は、フランスから見て遅くはないだろうか。そんなことが気になって仕方がない。
 今日はブラウンのワンピースに、ベージュのレースジレを羽織り、白いパンプスを履いているが、差し色が足りなかったかも知れない。この服装にオレンジのネイルカラーはチープになるかと思い、白を選んでしまったが、赤系が正解だったような気もする。
 手の中の小瓶を見る。あるいはこのペールピンクこそが、ぴったりと合うようにも思えた。
 その思考をすべて読んだかのように父が言った。
「下着は何色だ? この前のラベンダーか、白か」
「し、白に……薄いグレーで刺繍が」
「そのピンクなら合うな。塗ってやろう。足の爪にも青い方を。その上品な白も良いが、せっかくだからな。あの、落とすやつは持ってるのか」
「あ、じょ、除光液は、使い切りのシートタイプを持っていますが……」
「よし。行こう」
 父がソファから立ち上がる。和泉はつられるようにして、小瓶の入った箱を大事に手にしたまま、腰を上げた。


 シティホテルに宿泊するときの父はだいたい、普通のダブルよりはランクが高い、という程度の部屋を取る。選んでいるホテルの格式を考えれば、それなりに贅沢なことだ。部屋は充分に広く、大きな窓からはたっぷりと陽光が入り、夜にはきらめく夜景が一望できることだろう。内装や調度品はシックで、いかにも外資系らしい照明の暗さも落ち着く。
 ベッド周りも清潔に整えられていた。父は数時間前にチェックインし、和泉が来るまでをこの部屋で過ごしていたらしいが、ベッドにはまだ触れていないようだった。窓際のテーブルセットに、読みかけらしい洋書が置いてある。その足元に革製のトランクケース。
「上着はそのへんに脱いで、ベッドにでも座れ。何か飲むか?」
「いいえ……大丈夫です」
「ではお姫様。お靴を失礼」
 和泉の足元にゆったりと膝をついて、壊れ物を扱うかのように、丁寧に脚に触れてくる。左足から右足と、そっと靴を脱がされた。
「お姫様、落とすのは」
「あっ……、はい、ええと」
 クラッチバッグの中から、使い切りの除光液シートのパックを手渡す。二枚入りの品だ。父は封を切り、たっぷりと除光液を含んだコットンのシートで、和泉の足の爪を拭いはじめた。
 少し冷たく、くすぐったく、ぞくぞくと心地良く、それでいて緊張する。
 両方の足のネイルカラーを落としてから、父はパックの中からもう一枚のシートを取り出した。
「ああ、しまったな。先に手から落とすべきだった。悪い」
「え、いいえ、……大丈夫です。……」
 左手を持ち上げられるままに任せ、ゆっくりと、指先のエナメルを拭われる。小指から順に五本。次に右手の爪を、やはり同じようにゆっくりと。
 使い終えたシートを近くのくずかごに放ると、和泉が膝に載せていた小瓶を手に取った。ペールピンクの方。
「あの、じ、自分でできますから……」
「やりてえんだよ。この桜貝のように繊細な爪に色を塗ってみたい」
 和泉は黙って、父がマニキュアの蓋を外す動作を見る。滴るほどに液の溜まった筆を、そのまま左手の小指の爪に載せてきた。
「あ、あまり液が多いと、よれて、気泡も入ってしまいますが……」
「ほお? 難しいもんだな。初めてだから勝手がわからん」
「……初めてなんですか」
 慣れているものかと思っていた。
 急に、胸の中がとろけるような熱さに見舞われて、呼吸が荒くなってくる。
 この高位の鬼であり、眩むほどの色気を持つ伊達男であり、何より自分の父親である――こんな男に、こんなことをされているのは、世界で自分だけなのか。
 よれや、気泡や、ベースコートやトップコートのことなどは、もはやどうでもよかった。
 この男が跪き、真剣な顔をして、和泉の爪を彩っているという、それだけのことで、和泉はたまらなく苦しく、そして甘美な感触で一杯になる。
 父の指先が器用であることはよく知っているが、さすがに爪に筆を伸ばす手際は、あまり良いとは言えなかった。しかし丁寧で、爪からはみ出してはいない。ゆっくりと指を進めて、左手の爪は淡いピンク色に染まった。
 次に右手。少し慣れてきたようで、こちらは左手よりも早く終わった。マニキュアの蓋が閉じられる。
 そして父はもう片方、ブルーの瓶を手に取る。背中を低くして、和泉の足の爪を塗りはじめた。案外、作業は早く進んでゆく。本当に器用なのだ。
 和泉の両手と両足を、桜色と空の色に染めて、父は満足そうに立ち上がった。
「いいな。似合う。この色にしてよかった」
 そう言われて、和泉は爪の色を見る。自分ではあまり選ぶことのない色。似合っているかどうかはわからないが、ふわふわと宙に浮くような多幸感があった。
 父が和泉の後頭部のバレッタを外し、結い上げていた金髪を下ろした。その毛先に指を絡ませてくる。
「蜂蜜色の髪。海の色よりもなお深い、透明な青の瞳。シルクの白い肌。白雪姫の鏡でも、世界で一番美しいのはお前だと言うだろう。ヒステリックな王妃に割られようとも、鏡はお前を讃えるはずだ」
「…………」
 恥じらいと、わずかの嬉しさと、身体の芯を割かれるような切なさで、和泉は唇を噛んでしまう。
 父は優しく笑って、和泉の頭をあやすように撫でた。
「どうした?」
「……僕が、……あなたの好みの女でなければ。……色褪せた、醜い女であったならば……」
「そんな女は居やしない。俺の娘はお前だ。お前はきらめく宝石だ。他者になることはできない」
「そういう、そういうことではなくて」
「そういうことなんだよ。和泉。他者にはなれない。神無のように姿を変えられる者ですら、それは他者になったわけじゃない。だから、その思考実験は無意味だ。だが、どうしてもお前が答えを求めるのなら」
 和泉の髪を撫でていた手が、するりとそのまま頬に滑る。その手のひらの大きさ。温かさ。染みるような。
「少なくとも現在、俺はお前を世界で一番愛している。その理由の追及には意味を感じない。お前が黒髪だろうが、醜かろうが、あるいは、俺の子供でさえなかったとしても。お前を世界で一番愛している可能性がある。理由なんか判らん。そういうもんだ」
「……む、無茶苦茶です。もう、それは、僕ではない、別の女です」
「今この瞬間のお前だけが事実だ。想像も仮想も、現実を侵食しえない。絶望も希望も等価だ。同じように無意味だ」
「あなたの言葉とは思えません。新しい仮説ありきで学問は進歩します。空想と展望と技術を噛み合わせて、人は月に至った」
「俺のかぐや姫。お前は、魂というものをどう解釈してる?」
「魂? ……量子論からの見方も、宗教的な意味合いの霊魂も、僕は詳しくありません。転生したとしても僕は僕で、別の者になることはない、というような話ですか?」
「違う。きっと転生は無い。俺の死んだ妹は、妹のまま土になった。他の誰にもならねえだろう。土は土だ。土の尊厳を無視すべきじゃない」
「では、ええと、生命体の――心的なコアという意味ですか」
「俺は定義してない。お前の定義を尋ねてる。確か理系だったろ。独自の解釈があるんじゃねえのか」
「ヒッグス粒子が魂の有無を証明し得るとか、そこで証明、あるいは否定されるものの正体だとか、という話――ではないんですよね」
「お前がそこに魂の本質を見出しているのであれば、それでもいいが」
「いいえ、そういうことは……。たぶん、あなたが望むだけの深度では、僕は魂というものについて考えを持ちません。文脈からして、あなたはきっと、僕を僕たらしめているものは何か、という話をしているんでしょう」
「それに限らねえが。お前が自我のありかにこだわるなら、なにか持論があるのかと思っただけだ」
「自我とは、肉体と精神の――二枚重ねの現在です。それだけです」
「俺もそう言ってるだろ。自我はそれで、他のものは自我たりえない。お前が別の女であったらと、そういう思考実験は無意味だと」
 どうにも、丸め込まれているような気がするが――
 おそらく、父は本当にそう思っているのだろう。
 だから追及しても無駄だ。この男は柔軟な感性を持つが、その意志は堅固である。冷たい石のように。
「ああ――」
 気付く。父の顔を見る。その硝子玉のような目。触れればひんやりと指が冷えそうな。
「あなたについてのイメージは、なんとなく像があります。石のような氷のような。無形のものなのに感触を想像できる。その結実が、文学的に言うのなら、つまり」
「魂か。それは他者に移植可能か? 物理的な可否を問うてるんじゃねえぞ。他の男の中に、その魂が宿るイメージを、お前は抱くことができるか」
「それは……それは。あなたが例えば、醜い男で、それでも、その中にあなたの魂があった場合――」
 父はじっと和泉を見ている。
 考えて、言った。
「その醜い男は、あなたです。肉体が違っても、あなたの魂でさえあるのなら」
「二枚重ねはどうした? 俺の魂は、俺の精神と、そして俺の肉体によって重なるものなんじゃねえのか? この肉体なしで、この魂は形成しえないとは?」
「二枚重ねによって成るのは自我です。あなたは自我と魂を混同しています」
「あん? おう、本当だ。お前の中では別個のものなわけだな」
「はい。あなたの中では同一ですか」
「お前の説に異論はない。お前が黒い髪の醜い女であっても、俺がお前を愛する可能性。それはつまり、お前の言う魂の話だろ。お前は魂を感触的なイメージで捉えてるわけか。そのへんは俺と違うが」
「あなたはどう捉えているんですか」
「説明不能だ。言葉にすると嘘になる」
「……それは」
 予想外の断言に、少し声が裏返ってしまった。
「ずるくないですか。僕には言語化を求めて、自分はしないんですか」
「お前が説明を拒否するんなら、俺もまったく強制しなかったぞ」
「ちゅ、抽象的なものを結晶化することを諦めるのは、学問の徒としての堕落です。拒絶で、逃げです。まさかあなたが、そんなことを」
「俺はお前と違って学問の徒じゃねえよ。知ってるだろうがよ。俺はあの山を拒絶して、逃げた男だろうが」
 今度こそ衝撃を受ける。
 そんな解釈をしたことはなかった。思いもよらない結晶化である。
 あの閉ざされた小さな山の側こそが、この男の先鋭性を拒絶したのだと思っていた。だから父はそこを見限り、飛び立ったのだと。和泉も、一族の誰も彼も、この男に見捨てられたのだと。
 それ以外の解釈を持ったことなど、一度もなかった。
 父は少し笑って、和泉の左手を取った。白い指先にペールピンクのネイルカラー。
「乾いたか? まだか。こういうのはどのくらい時間が掛かるもんなんだ」
「え、あ……完全に乾くには何時間か掛かります。表面だけなら、もうすぐですが」
「しばらくは何もできねえわけだな。わはは」
 そう言いながら、和泉の横に腰掛けた。ベッドのスプリングが小さく軋む。
 その長い腕で、和泉の頭を抱いてきた。広い胸に額が沈む。父の体温と匂い。これらに触れると、いつも胸の奥が炙られるような、あるいは凍てついて割れるような、そんな痛みを覚える。
 その痛みを感じる部分こそが、和泉の魂なのだろうか。
 そんなことを考える。
「……シャツに……化粧がつきます」
「粉の色なんかは洗えば落ちるだろ。マニキュアは少し困るな。だからじっとしてろ」
「あなたに会うために、いつもよりずっと丁寧に化粧をしてきたのに」
「化粧したお前も綺麗だし、化粧が崩れたお前も綺麗だ。世界のどこで、何をしている時でも、お前のことを考えている」
 言葉は嘘だ。この男の言葉は特に。
 そのことを、父自身もよく知っている。
 その嘘に傷つけられてきた百五十年だった。今も切り裂かれている。
「……あなたからもらったリップグロスを使っています。気付いていましたか」
「口紅だろ。気付いてるさ。よく似合ってるが、この服ならもう少し赤い色味でも良かったな。今度買ってくる」
「本当は化粧が嫌いです。鏡を見なければいけないから。この顔に、この姿に生まれて、良いことは何もなかった。あなたが褒めてくれること以外は」
「お前ほど綺麗な女は世界のどこにもいやしない。俺の自慢だ。お前が存在していること、それ自体が、俺の世界を鮮やかにする。お前は極彩色の希望だ」
「希望は――無意味で、現実を侵食しえないんでしょう」
「空に手は届かないが、赤く色付く夕焼けは美しい。意味は無くとも感動する」
「青い熱帯魚の次は、赤い夕焼けですか」
「そうだな。青も赤も、無くなれば俺の世界の彩度は落ちる。この金色の髪も。女の化粧やアクセサリーは良い。世界にきらきらと色を増やしてくれる」
「父さん」
 和泉は目を閉じる。世界から色が失われる。それでも構わなかった。今、この瞬間、和泉の世界は満たされている。無色であっても。
 和泉の世界観は感触だ。視覚ではない。だから、自分を抱く父の体温のほかは、どうでもよかった。無意味であり、和泉を侵食しえない。
 手足の先が少し冷たい。マニキュアの有機溶剤が揮発する際に、体温を奪うということなど、父はきっと知りはしないのだろう。
 ああ、と和泉は少し悲しくなる。これからマニキュアを塗るたびに、その色に関係なく、きっと父の姿を思い浮かべてしまうからだ。
 この冷たい感触は、父の魂に似ている。そう気付いてしまったのだ。








スポンサーサイト