ゆるおに 鬼化粧 5
FC2ブログ

【メニュー】



鬼化粧 5
「10 鬼化粧 5」


 日に透かすと、つややかな飴色に輝く自分の髪を気に入っている。
 櫛で梳かしてから、ブラシとヘアスプレーを器用に使って毛先を巻いた。アイロンを――熱を発するものを顔に近付けたくないため、いつもこうしている。余談だが、同じ理由でドライヤーも使ったことがない。
 化粧にはあまり時間を掛けない。手を抜いているわけではないが、早く終わるのだ。普通の女の平均などは知らないが、きっと自分の倍は費やしていることだろう。時間も。化粧品も。
 ドレッサーの鏡を見つめ返して、甘蜜は自分の左頬に手を触れた。先ほど粉をはたいたばかりで、頬紅も鮮やかに乗っている。紫系のアイシャドウは、少し間違えると年寄り臭くなるが、自分は使いこなしているという自信があった。甘く柔らかい目元を、紫の色気で引き立てている。優しさを添えるブラウンのマスカラ。
 今から、同じくブラウン系の眉墨を引くところだ。手にしていたペンシルライナーを、甘蜜は強く握りしめる。
 右の頬にチークは要らない。シャドウも。アイラインも。
 赤黒い火傷の上にいくら化粧を重ねても、それらは発色しない。
 だから甘蜜の化粧は、ほとんど左側にのみ施している。右側には眉尻を描く程度だ。
 隠せばまだ見られるだろうにと、心無い者に言われることもある。髪を下ろすなり、舞台化粧ほど濃く塗って跡を誤魔化すなり――ということだ。
 しかし、甘蜜は毅然として、それを拒否している。
 顔を隠すつもりなど毛頭なかった。完璧な流形を描く輪郭線。薄茶がかった甘い瞳。あくまで柔らかく通る鼻筋に、ふっくらと優しげな唇。
 万羽は人形のように無機質だ。静流は不気味さを隠しおおせていない。沙羅は体型で誤魔化されているが、顔立ちは中性的、いや、男性的と言える。皇ギは――
 目を閉じる。開く。
 鏡を見つめながら、眉墨を引いた。先に左。次に右。火傷の上に、慎重に。
 顔を右に傾ける。そうすると鏡には、左側だけが映される。染みひとつない白い肌。
 一族で、美貌を謳われるどの女よりも、自分のほうが美しいという自信があった。
 ひとつの欠点もなく整っているが、それでいて冷たさはない。優しい、春の木漏れ日のような、蜜の甘さのような華やぎ。この柔らかな美貌は、自分以外の誰も持ってはいない。
 まだ握り締めていたペンシルが、手の中で折れた。それを冷めた気分で見つめて、ドレッサーの上に残骸を放る。
 鏡の中の顔が引き攣っている。よくない兆候だった。
 深呼吸する。飾り棚の置時計を見た。昼の二時。
 紅茶でも淹れにいこうかと思ったが、この時間では――他の者たちも活動している可能性がある。
 顔を合わせたくなかった。誰とも。特に、あの泣き黒子の女と。
 あの女の忌まわしい父親は、幸い、この屋敷に不在であることが多い。
 ――そんなにも父を、娘を愛しているのならば、ともに出て行ってしまえ。
 甘蜜は四十年、そう願い続けている。その呪いは彼らの血縁にも及ぶ。あの女の弟たちも、甥も、甘蜜にとってはすべて忌々しい。あの汚らわしい血族は、よく面差しが似ている。下の弟や甥はそうでもない、と言う者は多いが、甘蜜から見ればそっくりだった。
 あの目。不必要に濃いまつ毛の下の、あの暗く光る瞳。獰猛な獣よりもなお悪い、蛇の執念深さを潜ませている。だから甘蜜は蛇が嫌いだった。山道で見つければ、必ず頭を踏み潰して殺す。
 坊主が憎ければ袈裟も憎く、木魚も数珠も何もかも憎い。あの女の血縁も、その師事を許している者たちも、何かかも憎かった。だから弥風や神無や此紀のことも許せない。
 滅びてしまえ。あの血に関わる者たちは全員。全員。全員。
 甘蜜の火傷を嘲笑った者たちのことは、さほど気にしてはいない。当然の反応だと思っていた。笑い声がひときわ高い理由も、甘蜜は理解している。
 ――左半分が美しいから。
 だから、右半分が爛れていることが、彼らには嬉しくてたまらないのだろう。
 一族にもそう授かりはしない、類稀なる美貌。それが損なわれたということが、楽しくて仕方がないのだ。他者から奪った蜜ほど甘いものは無い。奪われた者の涙と同じほど、それは舌にとろける。
 鏡の中の顔が、また歪む。
 ぎゅっと目を瞑って、ゆっくりと開いた。微笑む。天使の左側。悪夢の右側。
 ドレッサーのスツールを蹴るように立ち上がった。
 この屋敷に甘蜜の味方は少ない。父と師は優しかったが、早くに亡くなった。幼い頃、姉のように接してくれた沙羅は、なぜかあの鬼畜のごとき男に惚れている。刹那は八方美人で信用できない。
 ――右近様。
 かの鬼にだけ、甘蜜は信頼を寄せている。
 何くれとなく気遣ってくれるが、根本的に、他者に関心を持たない鬼だからだ。甘蜜を嘲らず、裏切りもしない。
 意外に手芸などをたしなむ右近は、部屋にいることが多い。甘蜜が訪ねると、快く相手をしてくれる。向こうから訪ねてくれることもあった。
 右近の部屋に行ってみよう、と考えたちょうどそのとき、襖が軽くノックされた。
「甘蜜。いるか?」
 男の声。誰かは判らなかった。多少の警戒を込めて尋ねる。
「おります。どなた様でしょうか」
「東雲だが、開けて大丈夫か?」
「あら――はい。どうぞ」
 右近の令息。甘蜜の敵ではない者の一人だった。
 襖が開かれる。この屋敷では珍しい脱色された髪。肩の入れ墨を黒の長袖で隠した男が、大きな段ボール箱を両手で抱えて立っていた。おそらく襖は足で開けたのだろう。
「まあ。どうなさったのですか? お荷物ですか?」
「親父が部屋の大掃除をしてて、着なくなった服やなんかをあんたにって。あんたが要らなきゃ捨てるけど」
「それは、わざわざありがとうございます。どうぞ、お入りになって」
 東雲は軽く頷くと、部屋に入ってきた。箱を畳の上に置いて、ぽんぽんとその上部を叩く。
「サイズがあんたに合うかねえ? 俺は捨てろって言ったんだけど、親父がせっかくだからって」
「右近様がお召しになるのは9号ですから、私にも合います。嬉しいです」
 そう愛想で言いながら、右近の服を着ることはできるだろうか、と懐疑的な気分になる。サイズは問題ないが、甘蜜に原宿系の趣味はない。
 東雲が箱を開け、中の服を取り出した。灰色のスーツ。紺のブラウス。ケーブル編みの黒ニット。
 数年前まで右近が好んで着ていた、控えめで上品な洋服だった。今度は愛想ではなく、「まあ」と声が漏れる。
「嬉しい。良い仕立てのお洋服でしょう? 本当にいただいてしまって良いのでしょうか」
「親父はほら、最近はああいう変な服ばっかり着てるだろ。かさばるから、クローゼットが一杯で、いろいろ処分しなきゃならねえらしいぜ。俺は女に着古しをやるのはどうかと思ったんだけどよ」
「そんな」
 見掛けに似合わない気遣いに、甘蜜は少し微笑む。耳にいくつもピアスを光らせ、肩に昇り龍を彫り、髪を金色にしても、この男には育ちの良さがある。
「ありがとうございます。ちょうど、右近様のお部屋を訪ねようと思っていたところです。お礼を申し上げに参りますわ」
「あー、今はやめといた方がいいぜ。部屋がしっちゃかめっちゃかで、足の踏み場も無えから。俺も戻りたくねえなあ。ちょっと居てもいいか? バックレると怒られるし、あんたの相手なら文句は言わねえだろうから」
「それは構いませんけれど――」
 東雲は比較的、接しやすい鬼である。右近の部屋で懇談したことも何度かあった。
「何もお構いできませんわ。あ、お茶でも淹れてまいります」
「いいよ。あんた部屋の外をウロウロするの嫌いだろ」
 そう言いながら、東雲は開けたままにしていた襖を閉めた。
「この座布団使っていい?」
「どうぞ。すみません、何もない部屋で……」
 東雲が座ると、甘蜜も立っているわけにはいかない。段ボール箱を挟んで向かい合う形になった。
 甘蜜の部屋には、本当に物が少ない。押し入れと天袋が大きいため、ほとんどのものはそこに収納できるのだった。少し前まではテレビを置いていたが、型が古くなったために処分した。新しいものはまだ買っていない。
 ノート型のパソコンを置いた座卓を部屋の隅に寄せ、あとはドレッサーがあるだけの部屋である。その白い猫脚のドレッサーを見て、「へえ」と東雲が言った。
「やっぱり、化粧道具の多さは化粧の厚さだな。親父の化粧台なんかすげえもんなあ。あんたは綺麗だから、薄化粧でいいわけだな」
 そのいかにも育ちの良い気遣いに、甘蜜はそっと苦笑いを浮かべる。
 東雲が甘蜜の火傷に言及したことはない。顔について何か言うとすれば、それは美しい左半分のみを指した。右側が視えないかのように語る。甘蜜への接し方として、それを選ぶ者も珍しくはなかった。人間に多い。一族の者は残酷で、その分だけ見え透いた小賢しさは持たなかった。
 しかしこの小賢しさこそが、毛並みの良さというものだろう。万羽などもそうだった。弥風は甘蜜を見て露骨に嫌な顔をするが、その末姫は、意外にも甘蜜を無視する。いや、無視というよりは、看過と言うべきだ。目を逸らすこともなく、注視してくることもない。
 このがらんとした部屋で、もっとも目立つ家具に言及するのは自然なことだ。東雲を責めることはできない。
 場繋ぎに、甘蜜は段ボール箱の中身を取り出すことにした。白地に薄いストライプ模様のブラウス。
「まあ、綺麗なブラウス。覚えております。右近様にお似合いでしたわ」
「あんたにも似合うよ。親父よりスタイルいいから」
 甘蜜は黙って微笑む。
 東雲は、女鬼からの受けが良い部類の男である。右近の直系。容姿も性格も悪くはない。しかし、克己の蜘蛛の巣に絡め取られた。
 ――自分なら。
 見目悪からぬ、高位の男と接するたびに、甘蜜はそう考えてしまう。
 甘蜜は己の位を弁えている。さほど血統高くはない。
 だが、美貌を授かった。そう、東雲や、克己、あるいは宣水。甘蜜の顔の右側に触れない、良識の血統の男たち。
 ――自分の本来の美貌があれば。
 ――彼らを魅了しえたのではないか。
 そう考えてしまう。
「東雲様――」
 取り出したブラウスを畳みながら、甘蜜は目を伏せて問う。
「私、右近様のような……舞台で使うようなお化粧品を使って、この火傷を隠した方が良いでしょうか。男のかたからご覧になって、いかがでしょうか?」
「ん、……」
 甘蜜がこんなことを男に尋ねたことはない。誰がどう答えようとも、顔を隠すつもりなど無いからだ。
 だから、戯れの――好奇心の問いである。
 東雲は少し言葉に詰まったようだったが、いかにも育ちの良い、慎重な声で答えた。
「あんたの表情が明るくなる化粧が一番いいんじゃねえの。男から見てどうとかよりも」
「今は暗いですか?」
「うーん。いや。そういうわけじゃねえけど。ううん」
 東雲が唸る。
 だいたい、予想した範疇の回答だった。こんなものだろう。得るものはない。判っていたことである。
 困らせてしまったことを謝って話を打ち切ろうとした甘蜜に、東雲は言った。
「でも、あんたの表情が明るくなると、つまんねえ美人になるかも知んねえなあ」
「え?」
 つい顔を上げてしまう。
 東雲は、甘蜜が思っていたよりも真剣な顔をしていた。
「あんた優しくて綺麗な顔してるけど、中身がその通りになったら、つまんねえ女になるかもな。その顔に、その毒があるから、色気つうか。そういうのが出てんのかな」
「毒――ですか」
「あ、気に障ったらすまねえな」
「いいえ、あの、よろしければ、続けてください」
「んん。あんたさ、斎観さんとか見る時の目、ぶっ殺してやるっていう呪い篭めてるだろ。なんつうかな、それが豪礼様とか皇ギ様に向くなら判るよ。普通の恨みだと思うけどよ。斎観さんとか西帝君とか、桐生君のことまでそういう目で見るのは、こう、毒が――つうか――恨みが――発酵して、あんたの色気になってるつうか。そういう気がする」
「…………」
 図星を射抜かれた気もするし、意表を突かれた気もする。
 毒。恨み。色気。
 甘蜜は知らず、自分の頬に触れた。右側。火傷で引き攣れた皮膚。
 これが無ければ、いや、これから生まれる恨みが無ければ、つまらない美貌の女であったと――そう言っているのか。
 この醜い傷跡によって生まれる色香があると。
 慰めではないのだろう。そのことは甘蜜にも察せられる。
 東雲はさらに言った。
「多分、桐生君なんかは――あんたみたいなのタイプだと思うよ。毒のある蛇みたいな、妖しい女が好きみたいだから」
「蛇? 私がですか?」
 この世でもっとも憎むものに重ねられて、甘蜜の声が上擦る。
「ああ、すまねえ。悪い意味じゃねえんだけど」
「私が――蛇? 毒のある?」
 甘蜜は毎日鏡を見ている。そして毎日、あの忌まわしき父子たちを思い浮かべて、呪う。蛇の目を持つ一族。あの汚らわしい――毒の血。
 ――その毒が。
 ――自分にも。
 ぞくぞくと背筋が震える。首筋に血流を感じた。この中を通っているものが。
 ――毒の血。
 生まれ持ったものではない。甘蜜の父は、気が優しい、穏やかな顔のままの男だった。甘蜜の毒は後天的だ。それを生んだものは。
 ――この火傷。
 それは。
 ――毒の化粧。
 そんな言葉が浮かんだ。
 思えば、甘蜜が紫を好んで化粧に使うのも、赤黒い火傷に馴染む色であるからだ。赤。黒。紫。
 それは、毒のイメージそのものだ。
 東雲の顔を見る。健全だ。毒はない。右近のさっぱりとした血から生まれた男。きっと、この男を篭絡することはできまい。
 ――誰ならば?
 甘蜜は考える。そして、今しがた、親切にも名指しで教わったことを思い出す。
 ――桐生。
 あの男の孫。可愛らしい顔立ちに、しかし祖父と同じ毒を宿す。
 口をきいたことはない。これからもきくことはないだろう。しかし――
 目を閉じる。火傷の痕をなぞる。その感覚に集中する。

 甘蜜が、豪礼の第四子――統陽に纏わりつかれるようになるのは、この時より、しばらく後のことである。








スポンサーサイト