ゆるおに VANILLA
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VANILLA
「12 VANILLA」


 典雅はあまり、女の寝顔というものを見る機会がない。
 というよりも、見ないようにしているのだった。よほど上得意の愛人を除いては、揺り起こすことにしている。眠るのならば自分は帰ると、典雅がそう言えば、すべての女は目を覚ます。
 好みの男の寝顔ならば、一晩中でも眺めているが。
 女の寝顔は、総じて、典雅にとって快いものではない。
 理由はわからなかった。ただなんとなく、気色が悪いもののように思える。柔らかな頬の線、静かな寝息、薄い瞼。
 もともと弱い生き物の、もっとも無防備な姿。
 若い頃から、典雅は、女の寝顔が――女が苦手だった。

 なぜこの女の寝顔だけは平気なのだろうかと、長い睫毛を見下ろしながら典雅は考えている。
 月光に冴える白い肌。長い髪をシーツに散らし、豊かな乳房に典雅の枕を抱いて、女は眠っている。丸めた背中の曲線。長い脚で掛け布団を挟んでいる。寝相が悪い。
 寝顔は人形のように整っているのだが。
 寒かろうと、布団を掛け直してやろうとしたが、太ももの筋肉でがっちりと挟まれたそれは、びくともしない。引っ張れば布地が破れ、中の羽毛が飛び出しそうだった。
 ――弱い生き物ではないからか。
 そんなことを思う。眠っていてなお、この女の肉体は、典雅よりも強い。
 仕方なく、自分の羽織りを掛けてやる。
 すると女は、うにゃうにゃと声を発しながら、気だるげに目を開いた。身体を丸めたまま典雅を見上げる。とろんとした顔のまま、妙にはっきりとした声で言った。
「アイスクリームをたくさんすくう夢を見たわ。大きいバケツに入ったアイスを、大きいスプーンですくって、きれいな形のアイスを作り続けて」
「いいよ教えてくれなくても。夢を語り合うほど惚れてない」
「ぶいー」
 よくわからない擬音を発して、万羽はまた目を瞑った。
「誰かが来ると面倒だから、自分の部屋で寝てほしいんだが」
「おんぶして連れてって」
「君は重いから嫌だよ」
 すらりとした身体に、凝縮された筋肉を隠し持つこの女は、典雅よりも体重がある。並の男よりもはるかに重い。
 ぶいー、とまた謎の擬音を発して、万羽は変則的な寝返りを打った。座っている典雅の膝に頭突きをしてくる。
 この美しい女の、こうした幼げな仕草にやられる男は多いのだろうな、と分析した。
「君、その体重を愛人にどう説明してるんだ」
「乗らないもん」
「そうかい。私にも乗らないでほしいが」
「あんたは綺麗な顔してるから、上から見るのが好きなの」
「それはどうも」
「サーティワンでさ、小さいアイス4個が選べるキャンペーンがあるじゃない? この前、あれ4個全部同じアイス選んでるやつ見たんだけど、メッチャ変わってない?」
「まずそのキャンペーンだかを知らないし、何を選ぼうが知らないし、どうでもいい。何なんだ、その話は」
「知らなくたってちょっと考えてみてよ。31種類から、好きなアイスを4つ選んでいいのよ? 4つ同じの選ぶ?」
「そもそもそんな店に行かないけど、選べと言われたら、面倒だから同じものにするかもしれない」
「あんた変わってるわ」
 ぱちりと大きな目を見開いて見上げてくる女の顔を、言い返すこともできずに、ただ見返す。
 変わっているのはこの女だ。
 どんな女でも、典雅の歓心を得るために話題を選ぶ。こんな突拍子もない話をしてくる女はいない。
 美しいアーモンド形の瞳をきらきらと光らせながら、鈴の音のような声で女は言った。
「あれねえ、頼んだ順に盛って重ねてくれるから、チョコレートとか重ためのアイスは最後に頼むのがいいのよ。最初に頼むのはミントとかシャーベット系。そしたら、こってりしたアイスのあとにさっぱりしたアイスっていう順番で食べられるから」
 心底どうでもいい工夫だった。
 確かにこの女はよくアイスクリームを食べているが、ファストフード店に行きそうな印象はない。気取った女ではないが――それは話題からもあきらかだが――そうした店に入るような男と付き合うようには思えなかった。
 まったく興味のない話だったが、一応、相槌を打つ。
「君もそういう店に行くのか」
「ちょっと前に街のモールに入ったのよ。喫煙スペースがなくなって、此紀がイライラしてた」
「ああ。此紀と行くのか」
 万羽は外出するとき、必ず男を伴うタイプだと思っていたが。
 典雅の姉弟子とは、確かにときどき出かけるようだった。
 浴衣の裾を引っ張ってくる。
「いい匂い。洗剤?」
「さあ。従者がやってくれるから知らない」
「やっぱり女の子の方が気が利くのかしらね。あたしの従者は匂いのしない洗剤使ってるみたい」
「君は香水を使うだろう。配慮してくれてるんじゃないか」
「さあね。お風呂入ったの?」
「君が寝てる間にね。君の香水の匂いを流してきた」
「なによう」
 腿にもぞもぞと頭を寄せてくる。刹那が飼っている猫のように。
 別に可愛らしいとは思わないが、不愉快なわけでもない。
 良くも悪くも、この女は典雅の心を動かさないのだ。作り物のような肉体。聞き取りやすい声。ほのかに甘い香水の匂い。
 なにより、この女は、典雅にさほど関心を持っていない。
 だから負担もなく、面倒でもなく、たまに訪れるこの女を、典雅は普通に迎え入れる。
 女の長く美しい髪に、なんとなく指を入れてみる。さらさらとした触り心地。
「君は寝顔も綺麗だな」
「よく言われる」
「そうかい。私は女が横で寝ていると落ち着かないんだが、君ならまあ平気だな。なぜかはわからないけど」
「そんなに女が嫌いなの?」
「嫌いというわけじゃないんだが。娘たち以外の女が、私のテリトリーで意識を喪失している、という状態が嫌なのかもしれない。喪失したものを預けられているような気がして」
 万羽はこういう時、適当な返事をしない女だ。何も言わずに典雅の浴衣の腰紐のあたりを見ている。
 その視線が誰かに似ている、と典雅はぼんやりと考える。
 変わった視線だ。強い自我を持つが、それを他者に向けて放たない。閉じているわけではないが、開いているわけでもない、特殊な構造の女。恵まれて大らかで、孤立している。広い湖。熱くも冷たくもない水を湛えて凪いでいる。
 ――万羽は、誰からも好かれるけれど。
 ――誰からも愛されないわね。
 姉弟子がそんなことを言っていた。わかる気がする。
 ――あんたの逆ね。
 そうも言っていた。
 わかる気がする。
「ねえ」
 澄んだ、高くも低くもない声。整いすぎて個性の薄い美貌。
 気侭だが心根は優しく、言動は幼いが、他者には寛容だ。生まれ持った素養は突出しているはずなのだが、そう見えない。
 バランスが取れている。
 異常に。
 バランスを愛する者は少ない。突出や不足、瑕疵、未熟さ、過剰さ、危うさ、強引さこそが、他者の心を刺激する。
 そびえ立つ石の城。美しいが、住まう者はない。
 茅葺き屋根の朴訥さもなく、宝石造りの驕慢さもない。朽ちることもなく、色褪せもしない。完成しているから変化がない。
 完璧だが。
 ゆえに、欠損が足りない。
 典雅の語彙ではない。いつか姉弟子が言っていたことだ。
「ねえ」
 甘いが媚びない、まったく心に響かない声で、語りかけてくる。
「なんだい」
「あんたいつも、何考えてるの。あたしと寝る時」
「全身よくできてるな、と感心してる」
「なによそれ」
「私は要するに女の生々しさが苦手なんだけど、君はそういうのがないな。多分、メンタルが男に近いのと、見かけが人形っぽいからだろう」
 化粧が崩れてなお、美しい形の眉をひそめて、万羽は唇を尖らせた。
「褒めてる? 貶してる?」
「私の好みで言うなら、褒めてることになるね」
 容姿は限りなくフェミニンだが、内面を注視すると、女らしさというものが極めて希薄だ。淑やかさだの、繊細さだの、あるいは陰湿さだの、そういった話ではない。
 万羽は他者に寛容であり、熱心でなく、それでいて優しい。自分の位置を固定し、他者に踏み込むことをしない。
 温情だが、厚情ではない。
 これらが示すものは、父性だ。少なくとも、母性の対極である――と典雅は感じている。
 鬼の一族に、母親というものは存在しないが。
 それでも――母性――と形容できるものを有する鬼がいる以上、父性は、対比として浮き上がる。
 白く長い腕が持ち上がり、典雅の髪に触れてきた。
「ドライヤー使わないの?」
「いつも従者が手入れしてくれるから、自分では使わない。面倒だし」
「あんたも髪下ろしてると人形みたいね」
「そうかい」
「あたしと寝るの、全然楽しくないでしょ」
「楽しくはないね。悪くもないけど」
 万羽は典雅の髪を離し、溜め息を吐いた。
「あんたはあたしのこと好きにならないから、つまんない」
「世界中の男が君に執心でないと不満か? そんな世界、動きにくくて仕方ないと思うが」
「あんたの世界はそうなのね。だから女が嫌いなの? あんたの世界を束縛するから」
「さあ。苦手なものは苦手なだけだよ」
「此紀に似てる女は特に苦手なんでしょ。それシスコンよ」
「そのあたりは自覚があるけど、放っておいてくれ」
「どうして神無より祝詞を選んだの」
 呼び捨てるな、と注意しようと思ったが、その問いが存外、真剣に発されたものだと察して、やめる。
 典雅は若い頃から、多くの女鬼に所望されたが、祝詞の元を離れることはなかった。
 それでもしつこく典雅を求めれば、祝詞の威光に盾突くことになる。であるから、多くの女鬼は、典雅が断れば、文句を言いつつも諦めた。
 しかし、祝詞よりも高位の鬼――数は多くなかったが、いくらかは居た――から声を掛けられると、無碍にはできず、祝詞を煩わせないためにも、多少は応じることがあった。
 その中でも、神無は比較的頻繁に――執拗というわけではなかったが、気が向くと、遠慮なしに声を掛けてきた。
 当時は男姿で暮らしていた神無が、本当は女生まれであることを、あるいは神無の従者でさえも知らなかったのかも知れない。
 だが、典雅にはすぐに察せられた。
 典雅を見る目。男からは発されない、あの薄赤い光線。女だけが有する、粘りつくような熱気を纏わせて、典雅を射る。
 万羽に話してもわかるまい。
 だから、女の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「なによう」
「愛してる」
「あんた、女と何か喋ってて、面倒くさくなったら全部それで誤魔化してるんでしょ」
「ばれたか。でもまあ、君のことは好きだよ」
「あっそ」
 唇を尖らせて、猫のような目で睨んでくる。そのような表情でも美しいと、男によく言われるのだろう。
 この女を愛でる気持ちはわかる。華やかな美貌。よく変わる表情。飛び跳ねるような会話。
 だが、抱きたいと思う男の気持ちはわからない。
 典雅の姉弟子のほうは、色気のある女だ。女を好かない典雅から見ても、男心をくすぐるものがある、ということはわかる。
 しかし万羽には、そのような妖しげな匂いも粘りも、何もない。
 ゆえに、典雅が気安く触れることのできる、数少ない女なのだが。
 万羽の柔らかい頬に触れる。ぷにっと抓んだ。
「なによう!」
「砂糖菓子みたいな女だな。甘くて口当たりがいい」
 しかし、鮮烈に記憶に残る風味はない。
 典雅が言葉にしなかった部分を察したらしく、不満そうに目を細めた。
「悪かったわね、単純な女で」
「精製された上質の砂糖だな。あくがなくて澄んでる」
「褒めてないんでしょ」
「君のような女がぴったり来るのかも知れない。私の従者になるか」
「あたしの方が序列が上よ。万羽様とお呼び」
「万羽様。あなたはとても美しい。私のものになってくれ」
「ふふふ」
 大きな目をきらきらと輝かせて笑う。
「あんたくらい綺麗な男に言われると、嬉しくなるわね。あんたこそ砂糖菓子みたいよ。おとぎ話の王子様みたい。二百年見ても飽きないわ」
「お姫様がいなくて困ってる」
「全員をフッてるだけでしょ。あんたのお姫様になりたい、しかもお姫様みたいに綺麗な女はたくさんいるわ。……あんたは女が苦手。でも従者は女ばっかり。見下してるの?」
「君はもう少し、アンバランスを学んだ方がいいんじゃないか。それこそ、同じアイスクリームを選ぶ男なんかと付き合えよ」
 攻撃されたため、反撃した。
 万羽は膨れる。
「なによそれ」
「秀才よりも天才が引力を持つのは、優れているからじゃない。いびつだからだ。君は残念なことに、欠点が無さすぎて秀才型に見える」
「だから、褒めるふりして貶すのやめてよ」
「ストレートに貶してるよ。褒めてない」
「ういー」
 幼児のように髪を引っ張ってくる。
 口調や仕草こそ幼いが、決して頭の悪い女ではない。二百年も付き合えば、その程度のことは知っている。
 いや。悪くないどころか。
 父の賢明さと、師の聡明さを継ぐ、才媛であろう。本当は。
 隠しているのか、持ち前のバランス性によって隠れてしまっているのか、それはわからないが。
「ねえ」
「よく喋るな。なんだ」
「なんでキスしないの」
「口紅がつくから」
「ティントだからつかないわよ」
「何のことやら知らないが。したいのか? なぜ?」
「あんた、自分の子供たちにはよくしてるじゃない」
「そうだね。愛情表現かな」
「あたしにもしてよ、愛情表現を」
「強要するものじゃないと思うが」
 言いつつ、身体を屈める。ふわりと香水の匂いがした。互いの髪を指で除けて、唇を合わせる。
 柔らかいが、温度を感じない唇だ。体温が近いのだろう。
 離れると、大きな目が典雅を見上げていた。
「目くらい閉じろよ」
「男のくせにまつ毛が長いわね。豪礼と同じくらい」
「耳寄りな情報をどうも」
 万羽と豪礼の間には、昔から距離がある。賑やかな女と寡黙な男だ。相性は悪かろう。
 だがまあ豪礼は、女には手が早い。万羽のような美しい女が誘えば、断る理由もないのだろう。
 万羽はころんと転がって、典雅の膝に顎を乗せた。
「あんた、焼きもちとか妬かないの?」
「どうかな。師が存命だった頃は、此紀と競った気もするけど」
「あんたの子、名前なんだっけ。上の子。あの子の愛人がどんな男かとか、気になったりしないの」
「ああ、それは気になる。多少は腹も立つね」
「妬くんじゃん」
「親心と呼ぶんじゃないか?」
「かも知れないけど。……物理的にも、そうじゃなくても、あんたのテリトリーに入るのは娘たちだけってこと? 他の男も女も、結局はどうでもいいの?」
「どうだろう。ときどき問われるけど、自分でもよくわからない。娘たちがテリトリーの内側にいる、ということだけは事実だね」
「あんたにとって、愛情は血縁?」
「師のことは愛していた。此紀のことも、まあ」
「それはきわめて血縁に近いわよね」
「きわめて近いけど、決して同一ではない、と解釈してほしいところだ。後天的な縁であっても、先天的な縁に類似する。別に自分の分身だけを愛するわけじゃない」
「言い訳するってことは、後ろめたい気持ちがあるの?」
「よくそういう追及を受けるから、それに対する回答の用意がある、というだけだ」
 そこでなんとなく、典雅は察する。
 万羽の来訪は、おそらく気まぐれではない。何かの理由があって、典雅を選んだのだろう。今回も。おそらくこれまでも。
 その理由についても、勘の域を出ないが、典雅には感じ取れる。
 万羽の父は、気難しく暴虐だ。この完全無欠の女の、唯一のウィークポイント。
 もっとも、そう思っている者は少なかろうが。
 父親の権力のもと、好き勝手に暮らす女だと、万羽をそう捉えている者のほうが多いはずだ。
 弥風。典雅の師を屠り、万羽の兄――自らの子をも排除した、あの厳酷の鬼だけが、万羽のバランスをわずかに傷つける。
 完全の血ゆえに、わずかな傷にも慣れていない万羽にとって、あの父の棘は痛かろう。
 艶のある、さらさらとした髪を撫でる。
「もし君が罪悪感を持っているのなら、それはお門違いだし。だから、君が償えると思っているのなら、それも見当外れだ。君と弥風は独立してる。君が補うことはできないよ。私は君を憎まないし、君が可愛らしいからといって、弥風への恨みを目減りさせることもできない」
「誰かを憎むっていう気持ちが――よくわかんないの」
 ぽつりとそう言って、万羽は小さく息を吐いた。
 この女にしては珍しい声音だった。
「良いことだと思うが」
「あたしは兄様たちのことも好きだったわ。だから、悪い言い方をするなら――あたしにも弥風を憎む権利がある。兄様を殺したんだから」
 典雅は返事をせずに、万羽の、形の整った、小さな後頭部を眺めた。
 確かにそうだ、と思ったからだ。見方によっては、兄を殺された末妹である。
 暴虐の鬼の娘、という切り出し方はフェアとは言えない。
 しかし、そうしたことを訴えたいわけではないようだった。
「愛と憎しみは表裏一体なの?」
 陳腐なフレーズだった。芸能人のような顔の女から、ドラマの台詞のように発声されるものだから、より通俗的に感じる。
「それならあたしは――誰のことも愛してないっていうの」
 先に同じく、発声者のせいで、今ひとつ心に響かない言葉だった。
 女の髪を梳きながら、それらしい相槌を打つ。
「表裏一体というより、同質のものだと解釈してるが。自分では操作できない、という意味で。だから別に、コインの裏と表だということにはならないと思うよ。別種同質の感情だろう。呪いと呼び変えてもいい。あるいは亡霊とも」
「あたしには霊感がないってこと?」
 この女は決して馬鹿ではない。理知で知られる、典雅の姉弟子よりも、あるいは頭の回転は速い。
 ――霊感がない。
 それは、この女の欠点を、的確に一言で示す言葉だ。
 不確かなものがない。妖しげなところがない。愚かでなく、儚くもない。
 父親と似つかないこの女が、おそらく唯一、完全な形で継いだ血だ。
 この女の血統には、呪いが通用しない。亡霊も視えない。弾丸は避けられ、毒は吐き出され、言葉は跳ね返される。
 外からの干渉を許さない、硬すぎる外殻を持って生まれている。
 王者の血筋だ。
 孤立し、堕落することはない。
 だが、そこから動くこともできない。
 王位継承権第一位。その座は、万羽の意志で退くことはできない。
「君は確か、今の従者を右近から取ったんだろう。愛してるかどうかは知らないが、横取りするくらいには気に入ってるんじゃないのか」
「東埜のことは気に入ってるわよ。あげないわ」
「別にいらないよ。ああいう線が細いのは好みじゃない」
「気に入ってるけど、子供がぬいぐるみを気に入るのと同じ気持ちなのよ、たぶん。だから東埜もあたしを嫌うんでしょ」
「意外とよくわかってるな」
「なによう!」
 軽く暴れる女の頭を抱き締める。
「まあ、君は可愛い。長生きもするだろう。そのうち相性のいい男も見つかるだろうさ」
「建入は気に入ってたわ。死んじゃったけど」
「覚えてる。あれはちょっといい男だったね。君にも懐いてた」
「あと百年、男を取り替えながら生きるのかしら」
「同じ男がいいなら、長生きしそうなのを狙ったらどうだ。豪礼の直系あたりが狙い目だと思うよ」
「全部取られてるじゃない。弥風とも神無とも此紀とも競る気はないわよ」
「東埜は此紀にも競り勝ったんだろうに」
「だから、これ以上はやり合いたくないの。……憎しみがわからないから、憎まれるのが怖いのよ。……愛も憎しみもわからない。あたしは自分以外のもののことが、よくわからない」
「認められるだけ潔いんじゃないか。誰しも、他者のことなんかわかりはしないさ」
「そういうことじゃないのよ」
 確かに、そういうことではないのだろう。
 万羽は理解している。自分の視線の位置を。己が孤高であることを。周囲に誰の姿もないことを。
 典雅にもそのことは察せられる。だが、察していないふりをする。
 この女の内部に踏み込む動機がないからだ。踏み込んだところで、石の城である。冷たい感触があるだけだ。
 踏み込んだことはないが。
 案外、柔らかく温かい部屋を有しているのかもしれない。
 しかし、それほど関心はなかった。だから話が通じない男のふりをする。
 万羽は典雅の腕の中で、もう一度小さく息をついた。
「あんたは寂しいと感じる? 誰とも寄り添ってないことを」
「どうだろう。寄り添っているかどうかはわからないが、子供がいなくなったら寂しいね。思い知らされた」
 典雅の長子は、病で早くに死んだ。
 さほど親密でもない親子関係だったが、伏せば心配になったし、死ねば悲しかった。子が自分より先に死ぬ、ということを考えていなかったのだ。
 その後悔を経て、典雅は二子と三子によく接する。失わずに済むように。また、失っても、思い出を慈しむことができるように。
 典雅も万羽も、とうに一族の平均寿命を越している。まだ生きるだろうが、そうでなくなっても、不思議なことではない。
「君が死んだら寂しくなる」
「そう? あんたはそういうの気にしなさそう」
「寂しいよ」
 実際はわからないが、そう言っておくことにした。腕の中の女には優しい言葉を吐けというのは、父が残した、数少ない典雅への教えだ。
 父は人間の女に刺されて死んだが。
 腕の中の女が身じろぎして、甘い香りが漂う。
「ねえ典雅」
「なんですか」
「あんたくらい綺麗な男が、あたしのこと好きになったら、あたしだってちょっと違ったかもしれない。そう思わない?」
 そう言って、万羽は典雅の手を払った。乱暴な仕草ではない。
 もぞもぞと身体を起こして、今度は肩に顎を乗せてきた。女の吐息が耳にかかる。
「近い。パーソナルスペースを侵害してる」
「さっきまであたしのスペースに侵入してたでしょ」
「そこまで直球だと言葉に困るな」
「どうせ心を明け渡さないんだから、身体の距離なんか関係ないでしょ」
「此紀もそんなことを言うが、克己は反対のことを言う。私はどちらかというと克己の方が正しいと思うよ。身体は精神に連動する。身体を押し付けるのは、心を押し付けるのと同じことだ」
「その瞬間だけ押し付けても、すぐ離れるでしょ」
「そこは同じ意見だが」
「どうせ寄り添えないなら、短い時間くらいくっついたっていいでしょ」
 口論する気もなかったので、黙って万羽の体重を肩で受ける。重い。
 耳を噛んできた。
「なんだ君は。発情期の猫か?」
「猫ってそうなの?」
「刹那の猫は発情期になると攻撃してくる」
「ふふん」
 笑い声が耳に甘ったるい。
「なんで女は終わった後にも可愛らしさをアピールしてくるんだ?」
「うわ、あんたのそういうところ嫌。女の行動は全部アピールだと思ってるの?」
「君は実際そうだろうに」
「いー」
 もう一度、典雅の耳を噛んでから離れた。
 そのまま万羽は立ち上がる。一糸纏わぬままに。
「帰るっ」
「ちゃんと服を着て帰るように」
「裸のまま東埜の部屋に行って、誰と何してきたか勘繰らせるのどう?」
「あのな。男はそういうのが一番嫌いなんだよ。だから嫌われるんだろう」
「なによう!」
 ぷんぷんと怒りながらも、万羽は服を着た。
「パンツ履き忘れてないか?」
「見つからないから、見つけたらあたしの部屋に持ってきて」
「なんで私がそんなことしないといけないんだ」
「そのくらいしてよ。友達でしょ」
 聞き慣れない言葉を発して、万羽は部屋を出て行った。
 かすかな香水の匂いだけが残る。
 その匂いの中で、典雅は布団に身体を横たえた。
 今夜はアイスクリームの夢を見るような気がする。





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